世界SF全集29 小松左京

著者の初期長編作品の中から「継ぐのは誰か?」と「果てしなき流れの果てに」の2編を収録した本。

俺には“リタイアしてから読む作家”というのが何人か存在しており、今回の小松左京もそのうちの一人。彼の(短編については各種アンソロジーでいくつかお目に掛かっているものの)長編小説はこれまで一編も読んだことがないのだが、それは俺が学生だった頃には既に評価が確立していたということ(=つまり、急いで読む必要はない。)であり、この度めでたく定年を迎えたということで早速読んでみることにした。

最初に集録されている「継ぐのは誰か?」はミュータントものであり、世界各地の学園都市で起きた殺人事件を契機に新人類の存在が明らかになるというストーリー。この新人類には電波を自由自在に操ることができる特殊能力が備わっており、それを駆使して彼等の本拠地である南米の古代文明を(裏側から)支えていたというのだが、正直、彼等のイメージは“密林に潜む呪術師集団”であり、新鮮味(≒センス・オブ・ワンダー)は希薄。

特に、それだけ高い知性を有していながら医学をはじめとする科学分野での発展がほとんど認められないという設定は相当不自然であり、取って付けたようなどんでん返しも感心できない。もっと“新人類と対峙せざるを得なくなった我々旧人類の覚悟”みたいなものを正面から取り上げて欲しかった。

さて、それに対して傑作の誉れ高い「果てしなき流れの果てに」は人類の進化とパラレルワールドものとを組み合わせた野心作であり、古代地層の中から現代の科学レベルを超えた未知の器具が発見されるという導入部は(おそらく、それをもって嚆矢とすることは出来ないにしろ)十分に読者のSFマインドを擽ってくれる。

最終的には広げすぎた大風呂敷を上手く畳めなかったきらいがあり、アーサー・C.クラークの長編なんかと比べると完成度の点で見劣りしてしまうのだが、“何故、歴史を改変してはいけないのか”という問題意識はなかなか斬新であり、また、本作の7年後に発表される「日本沈没」のアイデアが一部垣間見られるのも興味深かった。

ということで、両作品に共通しているのは“国家の枠組みを超えた人間同士の交流”という世界観なのだが、残念ながら本作で“未来”として描かれている現在においても偏狭なナショナリズムは健在であり、昨今の“日本スゴイ”の風潮はそれを煽ろうとしているとしか思えない。結局、人類の進化のためには数十年というスパンはあまりにも短すぎるということなのでしょうか。