ティファニーで朝食を

娘が読み終えたのを借りて読んだカポーティの中短編集。

有名な表題作については、開始早々、オードリー・ヘプバーンによる映画版とは違うラストになることが分かってしまうので、ほとんど最初から“映画とは別物”という気持ちで読み進めることが出来る。

訳者あとがきで村上春樹(=この人のちゃんとした文章を読むのは本書が初めてだと思う。)が書いているように、確かにここに出てくるホリー・ゴライトリーはヘプバーンのイメージではないが、最もイメージが異なっていたのは一人称の語り手である“僕”の方。映画版では二枚目のジョージ・ペパードが演じていたのだが、本書でのイメージは「カポーティ(2005年)」でアカデミー賞に輝いたフィリップ・シーモア・ホフマンの方により近い。

まあ、以前読んだ「冷血」の影響がまだ残っているせいなのだと思うが、本書の“僕”とホリーとの距離感から「冷血」における作者と犯人とのそれを連想してしまい、たとえ恋人や友人のためであっても自らは決して安全地帯から足を踏み出そうとしない人間の冷酷さのようなものを感じ取ってしまった。

ということで、これは、昔、別の短編集かなんかで読んだ覚えのある「クリスマスの思い出」に登場する幼い“僕”についても同様であり、子どもの頃、安定した家庭を知らずに成長したカポーティの心の一面(=一度手に入れた安全への執着?)を反映しているような気がした。そして、同じ不幸な境遇に育ちながらも、いつでも新天地を求めて飛び立って行けるホリーは、そんな作者の憧れ(=それなりの嫉妬も混じっているが)なのかもしれません。