楢山節考

深沢七郎が42歳のときに中央公論新人賞に応募した彼の処女作。

映画化等でも話題になったことのある名作ということで、前々からいつか読んでみようと思っていた作品。“〜考”という重厚そうなタイトルから勝手に長編というイメージを抱いていたのだが、実際は4つの短編が収められた薄っぺらい短編集の中の一作であり、ボリューム的には文庫版で60ページほどに過ぎない作品であった。

さて、ストーリーは、信州の山奥の寒村に伝わる“姥捨て”の風習を描いたものであり、70歳を迎えようとする主人公のおりんが、一日でも長く一緒に暮らしていたいという息子夫婦の願いにも耳を貸さず、自ら進んで死地である楢山へ赴くまでの日々の暮らしぶりが淡々とした調子で描かれている。

実は、ボリューム面以外にも、“ある地方に伝わる古謡の歌詞の裏に隠された本当の意味を解き明かす”みたいな民俗学的趣向をちょっぴり期待していたのだが、著者自身が手掛けたという楢山節の歌詞はかなりストレートな内容であり、明確な記述はないが、本作の時代背景も意外に新しいんじゃないかという印象を受けた。

そんなこともあってか、本作を読みながら脳裏をよぎったのはSF小説の古典である「冷たい方程式」であり、“全体を生かすために一部を切り捨てる”というシステムに納得して自ら死を選ぶという筋書きは両者とも同じ。本作の場合、その語り口等から迷信とか因習とかいった雰囲気が漂いがちだが、ある意味、とても合理的な内容と言えるのではなかろうか。

それが最も強く表れている一例が「おい、嫌ならお山まで行かんでも、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」という裏ルールの存在であり、確かに、心身の虚弱な者にとって老親を背負ったまま「七つの谷と三つの池」を越えていくのは難しく、途中の七谷で親を谷底に突き落としても良いという裏ルールはどうしても必要なものだったのだろう。

しかし、「冷たい方程式」の少女の“納得”の根拠が非人間的な方程式であったのに比べると、本作の主人公のそれがやや軟弱であることは否定できないところであり、それを補強するのが世間体だというのはいかにも日本的。彼女が一番恐れていたのは家内に餓死者が出ることではなく、自分が楢山節の歌詞によって後々まで揶揄されることだった。

ということで、本書の解説では著者のことを「徹底したアンチ・ヒューマニスト」と呼んでいるが、本作で一番感動的なのは主人公の息子が「本当に雪が降ったなあ!」の一言が言いたくて捨てた老母の元へ立ち戻るシーンであり、これを非人間的というのは少々納得しがたい。おそらく、ヒューマニズムもその環境によって多様に変化するということなのでしょう。