ゴジラvsコング

今日は、妻&娘と一緒にようやく劇場公開された「ゴジラvsコング」を見てきた。

世界的には今年の3月末に公開されており、全米では3週連続No1という輝かしい興行成績を収めた大ヒット作品なのだが、(おそらく)東京都に対する緊急事態宣言の影響で我が国における公開予定は延期されたまんま。正直、6月20日付けでの宣言解除が正しい判断とは思えないのだが、何はともあれ本作を劇場で見られるのは嬉しいことであり、約7ヶ月ぶりに映画館へと足を運ぶ。

さて、ストーリーは本作のタイトルどおりであり、何故か“先祖代々死闘を繰り返してきた永遠のライバル同士”という設定になってしまったゴジラキングコングが迫力満点の肉弾戦を見せてくれる。勿論、それだけで2時間近い上映時間を埋めることは困難な故、主人公の2匹(=頭?)からすれば虫ケラ程度の存在に過ぎない人間が2グループに分かれてささやかな冒険を繰り広げるのだが、当然、観客のお目当ては前者であり、後者は単なる“ツナギ”でしかない。

そして、そのファイトシーンはなかなかの出来であり、第一ラウンドで苦杯を喫したコングが“道具”を使うことによってゴジラに一矢を報いるという展開は文句なしに素晴らしい。一方、最大の不満はツナギの部分が長すぎるところであり、2つあるサブテーマのうちどちらか一つを没にして、もう1、2ラウンドくらい両雄のファイトシーンを増やして欲しかった。

まあ、今のプロレスの試合を見ても分かるとおり、ファイトシーンだけで間を持たせるというのはなかなか大変なことなのだが、かつての日本プロレスでは“60分三本勝負で時間切れ引き分け”みたいな試合を何度もこなしていた訳であり、アダム・ウィンガード監督におかれましては、過去のゴジラ映画だけでなく、我らがジャイアント馬場選手の往年の名勝負を参考にするべきだったと強く思う。

ということで、今回のハリウッド版ゴジラ・シリーズとしては本作をもって一段落ということになるのだろうが、このシリーズで培った怪獣プロレスのノウハウをこれで終わりにしてしまうのはとても残念。ガメラでもウルトラマンでも何でも良いので、日本の怪獣映画関係者の全面協力の下、モンスターバースの続編を期待しております。

Mank/マンク

2020年
監督 デヴィッド・フィンチャー 出演 ゲイリー・オールドマンアマンダ・セイフライド
(あらすじ)
“マンク”こと脚本家のハーマン・J.マンキーウィッツ(ゲイリー・オールドマン)は、新進気鋭の映画作家オーソン・ウェルズから彼の初監督作品の脚本を依頼される。テーマは“新聞王”と呼ばれた人物の波乱の生涯であり、モデルになるのは実在の新聞王であるウィリアム・ランドルフ・ハースト。一時期ではあるが、マンクはハーストの傘下で仕事をした経験があり、彼の愛人であるマリオン・デイヴィスアマンダ・セイフライド)とも親しい間柄だった…


市民ケーン(1941年)」の共同脚本家であるハーマン・J.マンキーウィッツの伝記映画。

今年のアカデミー賞で作品賞をはじめとする10部門にノミネートされた話題作であり、Netflixで見られるのはかなり前から知ってはいたのだが、“難解”との前評判に尻込みをしてしまい、本日、何とか視聴にこぎ着ける。しかし、内容は極めて興味深いものであり、正直、今まで見た今年のアカデミー作品賞ノミネート作品の中ではこれが一番面白かった。

さて、主人公のマンクは著名な映画監督ジョセフ・L.マンキーウィッツの実兄であり、その他にも彼の周囲には当時のハリウッドを代表する名士たちがゾロゾロ。本作で批判的に取り上げられているハースト、ウェルズ、ルイス・B.メイヤー、アーヴィング・タルバーグにしても、まあ、その人間性はともかく、いずれもハリウッド映画の歴史に名を残す大物ぞろい。

そんな彼らに比べてしまうと、正直、主人公の経歴が相当見劣りするのは否定し難いところであり、彼が脚本を手掛けた作品をざっと見てみても知っているのは「市民ケーン」と「打撃王(1942年)」くらい。おそらく、ウェルズが主人公に脚本を依頼したのは、その才能に惹かれたというよりも、ハーストとの微妙な人間関係に興味を持ったからなのではなかろうか。

しかし、本作における主人公の決断が立派な“ハチの一刺し”であることは間違いないところであり、あくまでも弱者の立場に寄り添ったその勇気ある行動は十分アカデミー脚本賞に値する。そのへんの事情については「『市民ケーン』、すべて真実」という本に詳しく書かれているそうであり、機会があればその本も読んでみようと思う。

ということで、主人公の口述筆記を担当する有能な助手リタ・アレクサンダー役でリリー・コリンズという女優さんが出演しているのだが、モノクロ映像のせいもあって、これが若き日のオードリー・ヘップバーンを彷彿させる凛々しいお顔立ち。Netflixで配信中の「エミリー、パリへ行く」という連続ドラマにも主演しているそうであり、早速、拝見させて頂こうと思います。

神々の明治維新

神仏分離廃仏毀釈”という副題が付けられた安丸良夫の本。

神社仏閣巡りはこれからの妻との“老後”に彩りを添える主要なイベントの一つなのだが、その際に気を付けなければならないのが明治初期に吹き荒れた神道国教主義化の影響であり、これを知らないでお参りすると、明治政府の指導者たちが仕組んだ「天皇を中心とするあたらしい民族国家への国民的忠誠心」を確保するための「イデオロギー的手段」に過ぎないものを無闇に有難がってしまう危険性が高い。

その予防策の一つとして手にしたのが本書であり、「神仏分離廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた」というのが本書における著者の主張。明治維新というクーデターによって権力を掌握した「岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正当化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけ」であり、彼らは「神道復古の幻想に心を奪われた国学者神道家たち」による「神祇官再興や祭政一致の思想」を「神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギー」として利用しようと考えた。

しかし、当時、社僧など僧侶身分の者に対して根強いコンプレックを抱いていた神道家たちと冷徹な新政府の首脳との間には、廃仏毀釈に対する“情熱”において相当の格差があったようであり、あくまで穏便に事を進めたいと考えていた後者は、前者に対して「粗暴なノ振舞等」を厳に慎むよう布告する。

また、真宗僧侶たちの根強い抵抗の成果もあり、強力な廃仏毀釈が行われたのは「隠岐佐渡薩摩藩土佐藩、苗木藩、富山藩、松本藩など」の一部の藩や地方に限られた。しかし、「記紀神話などに記された神々と、皇統につらなる人々と、国家に功績のある人々を国家的に祭祀し」ようとする国体神学の思想は、「それ以外の多様な神仏を祀るに値しない俗信・淫祀として斥けた」という点で日本人の神観に「決定的な転換」をもたらした。

一方、明治政府による「伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系」構築の真の狙いは、「あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しよう」というものであり、「それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、…(それ)への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった」。

その具体例の一つとして挙げられている吉野山神仏分離では、三体の巨大な蔵王権現像を祀っている蔵王堂を「口宮」に格下げし、「町並みを4キロも離れた登山口に孤立して」いる金峰神社を本社にするという暴挙が行われたが、「蔵王権現…は、当時の民衆にとって、神仏のいずれかに区分して信奉されていたのはな」く、「蔵王権現蔵王権現として…信仰されていた」訳であり、その無意味さは明らか。

この他にも、「この地方の神社は、仏像を神体としてるばあいが多かったが、そのほか、疱瘡神、稲荷、大歳神、山の神、塞の神、地主神などが祀られており、名称や由来を尋ねても、よくわからないばあいもあった」らしいのだが、こういった民俗信仰の多様性を全く無視して「いま私たちが…神社の様式としてごく自然に思いうかべてしまう鳥居、社殿、神体(鏡)や礼拝の様式など」が国家の政策を背景として成立してしまう。

ここで注意すべきなのはそういった「民俗信仰の抑圧は、強権的なものとしてよりも、はるかに権威づけられた啓蒙や進取のプラスの価値として、人々に迫ること」になったという点であり、結局、多様な民俗信仰は「猥雑と懶惰と浪費と迷信」の一部にされてしまい、政府の開明的諸施策とその理念が曖昧なまま受容されてしまう。

まあ、最終的には、外遊で自信を得た仏教側の提言とキリスト教への迫害を非難する外圧の影響によって「信教の自由」が認められることになり、「神仏分離廃仏毀釈神道国教化政策の歴史」は終焉を迎えることになる。しかし、仏教界の主張する「『信教の自由』論においては、内面化された国家至上主義が自明の前提とされて、近代国家建設という課題にあわせて宗門を改革し、門徒大衆を教導してゆくこと」が目的とされており、「国政に害ある宗教を信ずる自由を意味するものではな」かった。

そして、神仏分離廃仏毀釈という「国家による国民意識の直接的な統合の企てとしてはじまった政策と運動は、人々の“自由”を媒介とした統合へとバトンタッチされ」たというのが少々皮肉めいた本書の結びの言葉であり、残念ながら、このような意識は今の宗教界、特に神道系のそれの内部にも根強く息づいているような気がする。

ということで、前にも書いたかもしれないが、神仏分離によってこの世から消されてしまった奇習、奇祭の類は相当な数に上るものと思われ、本当はそっちのほうが我が国の“伝統”の主要な一部を成していたのだろう。廃仏毀釈の被害にあった数多くの仏教美術の名品共々、大変勿体ないことをしたものだと思います。

東吾妻山とチングルマ

今日は、妻と一緒に福島県の東吾妻山周辺を歩いてきた。

一切経山チングルマが満開というレポートを複数拝見し、8年ぶりに後追いさせてもらおうと思ったのだが、調べてみると「老朽化した階段の改修工事」のために吾妻小富士は歩くことが出来ないらしい。仕方がないので代わりに東吾妻山を予定に加えてみたものの、現地で妻からドタキャンされる可能性は否定できず、どうなることかと思いながら午前7時頃に浄土平駐車場に到着する。

身支度を整えて7時14分に歩き出す。しばらく歩いて行くと一切経山と姥ヶ原の分岐(7時25分)に着くが、ここで一計を案じて姥ヶ原方面へ直進。つまり先に東吾妻山を歩いてしまおうという作戦であり、これならドタキャンの心配は無用だろうとほくそ笑みながら、階段状のルートをのんびりペースで上って行く。

雲の合間から顔を出した陽の光は意外に強烈だが、姥ヶ原の湿原には涼しい風が吹いており、これがなかなか良い気持ち。お目当てのチングルマはやや見頃を過ぎており、花弁を落としてしまったものも目立つが、まあ、全体的に見ればまだ十分魅力的であり、幸福な気持ちになって8時14分に着いた姥ヶ原の十字路を東吾妻山方面に左折する。

東吾妻山への登山道は樹林帯の中に続いており、そのなだらかな山容といい、一切経山とは大違い。特に見晴らしがほとんど無いところが大きなマイナス点であり、当初の計画どおり一切経山の後に歩いていたら妻から苦情が出ていたかもしれないなあ。しかし、8時59分に着いた山頂(1975.1m)は見事に開けており、そんなマイナス点を完全に帳消しにしてくれる程の大展望!

残念ながら猪苗代湖は雲の下に隠れていたものの、磐梯山西吾妻山桧原湖といった馴染みのある景色を眺めながら食べるおにぎりの味は格別であり、やっぱり来て良かったね。それにしても、ここから見える西吾妻山までは相当距離があるようであり、吾妻山全体のスケールの大きさにちょっぴり驚かされる。

さて、9時25分に下山に取り掛かり、10時ちょうどに姥ヶ原の分岐まで下りてくる。再びチングルマを愛でながら木道を進んで行くことになるが、こちらでは一足早く羽毛状になったものまで見ることが出来、花のサイクルを一日で観察できてしまうのがちょっと面白い。そんなことを妻と話しながら鎌沼の周囲をのんびり歩き、10時24分に酸ヶ平の分岐に着く。

幸い妻からのドタキャンの申し出は無いようであり、そのまま一切経山へと続く石のゴロゴロした斜面を慎重に上り、11時15分に山頂(1948.8m)に到着。着いたときには薄いガスに包まれていたが、大きめの石に腰を下ろして休んでいると次第にガスが晴れて行き、無事、美しい“魔女の瞳”と再会することができた。

11時49分に二度目の下山に取り掛かると、後はもう駐車場まで下って行くだけであり、刻々と変化する吾妻小富士のクレーターの様子を眺めながら姥ヶ原への分岐(12時25分)~浄土平湿原の木道と歩き、13時9分に駐車場まで戻ってくる。本日の総歩行距離は10.5kmだった。

ということで、先に東吾妻山を歩いてしまうという作戦は大成功であり、ドタキャン対策だけでなく、最後まで退屈すること無く周回コースを楽しむことができる。せっかくの温泉地にもかかわらず、日帰り入浴を自粛せざるを得なかったのが唯一の心残りだが、まあ、その気になればいつでも再訪できるエリアであり、コロナ禍が収束する日を首を長くしてお待ちしたいと思います。
f:id:hammett:20210703174631j:plain

女峰山のイワカガミ

今日は、梅雨の晴れ間を利用して一人で女峰山を歩いてきた。

前回の“失業者登山”に対する妻&娘の反応は極めて好意的であり、さっそく図に乗って二度目の山行を決定。目的地はお気に入りの女峰山であり、本当は黒岩尾根か羽黒尾根から歩かなければいけないのだが、トレーニング不足から少々体力的に不安が残る故、実に12年ぶりとなる霧降高原からのピストンを選択し、午前5時前にキスゲ平園地のP3駐車場に到着する。

先着は1台だけだが、なかなか出発する様子を見せないので一足先に歩き出す(5時5分)。天空回廊(5時7分)に入ると数は少ないもののニッコウキスゲが咲き始めており、まだ初々しい花の様子を愛でながら階段を上って最上部(5時32分)に到達。ここまでてっきり一番乗りだと思っていたのだが、小丸山(5時35分)~焼石金剛(6時4分)と歩いて行く途中で数百メートル先を行く4人連れのグループを発見してしまい、う~ん、いったい何処に車を駐めたのかな?

6時28分に着いた赤薙山(2010m)の山頂にはその4人組と思われる皆さんが休んでおり、会釈をして先に行かせてもらう。足元には白いイワカガミの群生が可愛らしい花を咲かせており、ちょっと珍しいなあと思いながら歩いていくと、奥社跡(7時9分)の先からはいっせいに赤色へと変化してしまい、まるでちょっとした源平合戦みたい。

その奥社跡の先からのルートは平坦でとても歩きやすく、個人的にはこちらの方が“天空回廊”の名に相応しいような気がする。ヤハズ(7時27分)を過ぎると空腹を覚えるようになったので一里ヶ曽根(7時51分)で本日最初の小休止。無風快晴の下で頬張るおにぎりの味は格別であり、好天の日を選んで山行の日程を決められることの有り難さを一人噛みしめる。

さて、水場分岐(8時3分)~ガレ場(8時27分)と進み、唯一のロープ場を上ってハイマツ帯に入ると山頂は目前であり、8時50分に女峰山(2483m)に着く。期待したとおりそこに人の姿はなく、男体山から大真名子山~小真名子山と連なる絶景を独り占め。しかし、先ほど空腹を癒やしてしまったので景色を楽しんだ後は特にすることもなく、9時6分に下山に取り掛かる。

復路は赤薙山の山頂を巻いたこと以外は往路を引き返すだけであり、一里ヶ曽根(9時52分)~奥社跡(10時27分)~巻道分岐(11時3分)~小丸山(11時45分)と歩いて12時9分に駐車場まで戻ってくる。12年前の記憶と同様、奥社跡から続く下りの連続は少々足に応えたが、本日の総歩行距離は13.4kmだった。

ということで、帰宅後、恐る恐る12年前の記録と比べてみたのだが、何と今回の所要時間は7時間4分で前回より19分も短くなっている。おそらく、それには前回は存在しなかった天空回廊の影響が大きいのだろうが、やはり12年前の記録を短縮できたのは気分の良いものであり、ちょっぴり自信回復にも繋がりました。

松本清張全集30

ノンフィクション作品の「日本の黒い霧」を収録。

順番通りなら「草の陰刻」という耳慣れない長編小説を収録した第8巻を読むべきところなのだが、ちょっとした箸休めの気分で本作を先に読んでみることにした。こちらは非常に有名な作品ということで名前だけは聞いており、題名のイメージから政界や官僚の汚職問題を取り扱っているのだろうと想像していたが、これは全くの勘違いだった。

では何を取り上げているのかというと、何と敗戦後のGHQによる占領期に起きた怪事件の数々であり、「下山国鉄総裁謀殺論」から「謀略朝鮮戦争」まで12編の作品が収められている。そしてその重要な背景の一つとして度々言及されているのがGHQ内部におけるG2(参謀部第二部・作戦部)とGS(民政局)との対立。

特に、ソ連中共の躍進を阻止するために我が国を反共の防波堤として利用したいと考えていたG2は、共産党労働組合に対する国民のイメージを悪化させるために下山事件松川事件白鳥事件といった事件の背後で暗躍し、“共産主義者は何を仕出かすかわからない危険な人たち”という印象を国民の意識に深く植え付けることに成功する。

最後の「謀略朝鮮戦争」の終わりの方で、著者は「中国と日本が不仲であることは、日本人に絶えず国際的な緊張感を持たせるのに役立つ。自衛隊は日本を防衛するというそれ自体の任務よりも、アメリカの極東における補助戦闘力となっている。新安保条約が、その鉄則の役割を演じる。このことが崩されないためには、アメリカは日本国民に絶え間なく共産勢力の恐怖を与えつづけねばならない」と書いているのだが、一部の保守主義者が騒ぎ立てているWGIPなんかよりもこちらの方を心配したほうが余程有益なことだと思う。

一方、本作の性格上、(あくまでも米国の利益優先という大前提の下ではあるが)理想主義的なニューディーラーが中心になって我が国の徹底した民主化を目指していたというGSの活動内容に関してはほとんど触れられておらず、う~ん、こちらについては別の本を読んで知識を補填しておく必要がありそうである。

ということで、本書の最大の特徴は、著者が小説家らしい推理力を遺憾なく発揮していくつもの大胆な結論を導き出しているところなのだが、まあ、それが仇になって「革命を売る男・伊藤律」のように現在では“要注意”とされている記述も少なくないらしい。それへの反省から生まれたのが後の「昭和史発掘」ということになるのだろうが、慎重になりすぎて何も書けないというのも大問題であり、個人的には本作における著者の手法を大いに支持したいと思います。

ノマドランド

2020年
監督 クロエ・ジャオ 出演 フランシス・マクドーマンドデヴィッド・ストラザーン
(あらすじ)
企業城下町だったネバダ州エンパイアは工場閉鎖に伴ってゴーストタウン化してしまい、長年、亡き夫とその町で暮らしてきたファーン(フランシス・マクドーマンド)は、当座の家財道具を一台のバンに詰め込んで車上生活の旅に出る。経済的な余裕はないため行く先々で生活費を稼ぎながらの旅になるが、同じ境遇の先輩キャンパーたちは皆親切であり、彼らのアドバイスを受けながら、一見、気楽な旅を続けていた…


今年のアカデミー賞で6部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演女優賞を受賞した作品。

我が国でも劇場公開されたらしいのだが、コロナ禍の影響もあってパスしてしまい、ようやくU-NEXTの有料配信で鑑賞。せっかくなので妻&娘にも声を掛けようかと思ったが、まあ、見て楽しくなるような作品ではなさそうであり、結局、一人寂しく拝見することにした。

さて、Amazonの倉庫や国立公園のキャンプ場などで季節労働(?)に従事しながら旅を続ける主人公の生活は、スタインベックの小説に登場するホーボーたちのそれを彷彿させるものであり、最初は“格差社会の犠牲者たちの悲惨な生活を描くことによって、現在の新自由主義社会を厳しく批判する作品”なのだろうと思って見ていた。

しかし、どうやら主人公が車上生活を選択したのは経済的な理由からだけでは無さそうであり、事実、優しい姉やキャンパーを卒業したデイブ(デヴィッド・ストラザーン)からの同居の誘いには決して応じようとしない。また、特に人間嫌いという訳でもなく、正直、主人公のコミュニケーション能力は俺なんかよりもずっと高そうである。

それでは彼女が車上生活を続ける理由は何なのかと言えば、長年住み慣れたエンパイアの消滅という悲劇が大きく影響していることはまず間違いなさそうであり、おそらく、自らのアイデンティテイの根幹を​なす“過去”の喪失という現実を直視したくないからなのだろう。せめて家族が残されていれば皆で思い出を語り合うことも出来るのだろうが、最愛の夫は既に亡くなっており、子供もいないようである。

まあ、このような生き方を“現実逃避”として批判することも可能ではあるが、高齢者の多いキャンパーたちに現実をやり直すための時間的余裕は残されていない訳であり、家の中に引きこもって悶々としているよりはよっぽどマシなんだろうと思う。

ということで、国土の狭い我が国で本作のような車上生活を続けることは困難だろうが、同じ高齢者の一人として今流行の“車中泊”にはちょっぴり興味はある。しかし、これまでの山歩きの経験からすると一番嬉しいのは“帰宅したとき”になるのは間違いないところであり、まあ、これは幸せなことなのだろうと思います。