早春の京都旅行(第2日目)

今日は、大原の社寺を見学してから京都市の中心部に移動する予定。

晴れていたら朝食前に寂光院周辺を散歩してこようと思っていたのだが、一日中雨という天気予報は当たりだったらしく、朝食の時刻まで布団の上でゴ~ロゴロ。しかし、雨脚はそれ程強くも無さそうであり、午前8時半過ぎに宿をチェックアウトして三千院へと向かう。

妻は学生の頃に一度訪れているらしいが、そのときの記憶はほぼ皆無だそうであり、雨の中、俺が先導するような格好で緩い上り坂を歩いて行く。受付で拝観料をお支払いすると“大きな荷物はこちらでお預かりできます”という有り難いお申し出があり、2人分のザックをそこに預けてから見学スタート。

境内は想像していたより広大であり、客殿~宸殿を通って一度外部に出ると美しい苔庭の中に往生極楽院が建っている。ちょうど雨脚が弱まった頃だったのでそのまま奥まで進んで金色不動堂~観音堂阿弥陀石仏と見て回り、円融蔵に併設されたショップでわらべ地蔵のアクセサリーを購入。文化財的な価値は無いが、まあ、娘には一番喜んでもらえるだろう。

次の目的地は宝泉院であり、我々が客殿に入ると同時に先客が退出してくれたため、雨に濡れた額縁の庭園を二人で独占。お抹茶を頂いてからもう一つの名物である血天井を見上げていると、住職らしき方が近づいてきてその説明をしてくれるのは有り難いのだが、お互いにマスクを外した状態なのでちょっと困惑してしまった。

その隣に建っているのが声明の聖地である勝林院だが、管理状況は相当オープンのようであり、証拠の阿弥陀の前にも“撮影禁止”の文字は見当たらない。折角なのでテープから流れる声明を聞きながら屋内外を写真に収めさせて頂いたが、江戸時代の再建にしては本堂の彫刻も阿弥陀如来坐像もなかなか良く出来ていると思った。

天気が良ければ音無の滝まで歩くつもりでいたが、依然として小雨は降り続いており、とりあえず今回の大原観光はここまでにしておこう。バス停まで引き返すと、発車時刻まで少々時間があるので、隣にある「茶房呂川」というお店の温かいカフェオレで時間調整をしてからバスに乗り、京都市中心部へと向かう。

こちらの目的地はキャノンのCMでもお馴染みの仁和寺であるが、ここの拝観料金は御殿、霊宝館、御室花まつりの3つに分かれている。雨脚はちょっと強まってきたし、御室桜はまだ開花前なので、さすがに“花まつり”はないだろうと思って前二者の共通拝観券を購入したのだが、後でこれが失敗だったことが分る。

最初に入った御殿はまさに“Palace”であり、伽藍というよりも現世の権力を象徴した宮殿の雰囲気が濃厚。宸殿の一部には折上格天井が施されており、まあ、これが仁和寺のルーツになるのだろうが、遠景に五重塔を取り入れた北庭の眺めも絶品。これに対し、次の霊宝館に展示されている仏像の数々は高い精神性を感じさせる名品揃いであり、特に国宝の阿弥陀三尊像を間近から見られたのはとても嬉しかった。

これらの見学を終了して金堂方面に進もうとすると、中門のところに係員が立っており、ここから先に進むには御室花まつり用の拝観券が必要らしい。しかも、それは先程の二王門付近の受付でしか販売しておらず、長~い参道を引き返して何とか購入。確認を怠ったこちらも悪いのだろうが、出来れば“花まつり”ではない別の名称を使って欲しかった。

さて、ようやく中門を潜ると左手に御室桜の古木が見られるが、遅咲きで有名ということで花はまったく咲いていない。しかし、金堂と五重塔は特別公開の期間中であり、別途拝観料を支払ってから国宝の金堂内部に入る。中央に二代目の阿弥陀三尊像を配した内部はなかなか豪華であり、当時の彩色が残っているのも素晴らしいが、保存上の理由からか、薄暗くて遠くが良く見えないところがちょっと残念だった。

一方、五重塔は外側から内部をのぞけるだけであるが、係の人が“初層の尾垂木のところに4体の邪鬼がいる”と教えてくれたので、そちらの探索に熱中。日光が弱いため、肉眼で見たのでは白いハトの糞のようにしか見えないが、スマホで撮影した画像を拡大してみたところ、確かに重そうに塔を支えている邪鬼の姿を確認することができた。

残念ながらCMに使われている観音堂は見学できなかったが、なかなか見所が豊富なところであり、今度は天気の良い日に御室八十八ヶ所霊場巡りを兼ねて再訪するのも悪くないなあと思いながら道路の反対側にある「佐近」というお店に入って一休み。その後、バスを乗り継いで本日の宿である「京乃宿 清水五条呉竹荘」に着くことができた。

ということで、天気予報どおり雨の一日になってしまったが、まあ、寺社巡りの大きな支障にはならず、日曜日のわりには人出が少なかったせいでコロナの感染対策には有益だったのかもしれない。今日の夕食も宿の地下にあるレストランで手軽に済ませてしまい、明日の晴天を祈りながら眠りにつきました。

早春の京都旅行(第1日目)

今日は、妻と一緒に2泊3日の日程で一年ぶりの京都旅行に出発する日。

俺の第二の勤め人人生も今月末で一応終了の予定であり、長年助けてもらった妻へのお礼も兼ねて卒業旅行を企画。心配された関西圏におけるコロナの感染状況も京都に限ってはまだ落ち着いているようであり、まあ、これなら感染の危険性は低いだろうと考えながら、午前9時前に京都駅のホームに降り立つ。

さて、本日の予定は去年2月に歩いた京都一周トレイルの続きであり、そこから烏丸線~京都バスと乗り継いで10時前にケーブル八瀬駅に到着。この日はケーブルカーの車体デザインが23年ぶりにリニューアルされた初日だったが、特に混雑している様子もなく、記念品を頂戴してからすんなり乗車。三分咲きの桜を間近に眺めながらあっと言う間にケーブル比叡駅に着いてしまう。

今日の天気は午後から崩れる予報だが、この時点ではまだ青空が広がっており、昨年歩いた「東山コース」の終点のところから下界の眺めを楽しんだ後、10時20分に「北山1」をスタート。前回は「北山2」(10時30分)のところから大比叡方向に向かったが、今回はそのままトレイルを歩き続けて10時51分に「北山6」。ここを直進すれば延暦寺東塔があるが、妻もそちらは訪れたことがある故、歩道橋を渡って西塔方面へと進む。

この辺りから大小様々な伽藍の近くを歩いて行くことになるが、釈迦堂手前の「北山8」(11時3分)に着いたところで“トレイルの人は右下の階段の方へ下りていくように”と声を掛けられる。声の主はその先にある巡拝受付所の職員の方のようであるが、そちらに下りてしまうと西塔中心部の見学ができなくなってしまうので、巡拝料(@1000円)を支払ってからにない堂~釈迦堂と進む。

一通り見学してからトイレを済ませると、ようやく本格的な(?)トレイルのスタートであり、奥比叡ドライブウェイの下(11時29分)を潜って山中へと入っていく。最初の頃は右手にドライブウェイが見えているのが少々不満だったが、休憩を取った玉体杉(12時00分)の前後からは一気に山歩きっぽくなってくる。

本日のメインイベントはその先にある二つのピーク越えであり、まずは急な斜面を上って12時24分に横高山(767m)に到着。次の水井山(12時44分、793.9m)が京都一周トレイルの最高地点らしいが、それはトレイルが稲荷山や大文字山といった山頂をことごとく外しているからであり、事実、大比叡(848.1m)に比べるとこっちの方が50m以上低いんだよね。

さて、馬酔木が満開の山頂でそんなウンチクを妻に披露してから再出発。13時26分に着いた仰木峠で稜線を外れて大原方面へと下りていくが、「北山19」(13時37分)にも“急坂注意”と書いてあるボーイスカウト道の下りはなかなか大変であり、沢付近に立つ「北山21」(14時1分)まで下りてきてようやく一安心。

防獣柵(14時16分)を通過すると間もなく大原の集落へと入っていくが、本日の宿泊の予約を入れてある「旅荘 茶谷」はまだ2km弱くらい先であり、トレイルを外れて国道367号線をテクテク歩いていく。途中、適当な飲食店を見つけたら早めの夕食を済ませてしまうつもりだったが、ようやく見つけたお店には早くも営業終了の札が下がっており、結局、空腹のまま宿(14時58分)に着いてしまう。本日の総歩行距離は11.8kmだった。

ということで、再度外出するのは面倒なので、宿に夕飯の追加をお願いしてから部屋に入ってゴ~ロゴロ。相変わらずの安宿ではあるが、バックパッカー気分の我々(?)にとっては十分満足できるレベルであり、遂に降り出してしまった雨音を少々不安な気持ちで聞きながら早々に布団にもぐり込みました。
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資本主義後の世界のために

「新しいアナーキズムの視座」という副題が付されたデヴィッド・グレーバーの本。

本当は、今話題の「ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論」を読んでみたかったのだが、図書館で検索したところ予約者数が多すぎてなかなか順番が回ってこないみたい。それ以外で図書館にあった彼の本は本書だけであり、仕方がないのでこちらを先に読んでみることにした。

さて、本書の構成であるが、やや意外にもグレーバー自身の書いた文章は「負債の戦略」という10ページ足らずの論文一つだけであり、「新しいアナーキズムの政治」、「新しいアナーキズムの哲学」という2本のインタビュー記事が本書の大宗を占めている。インタビュアーは本書の訳・構成を担当している高祖岩三郎という人物であり、まあ、彼によるデヴィッド・グレーバーの紹介本とでも考えておけば良いのだろう。

本書を読んで一番興味を惹かれたのは、「すべての社会はある基底的な共産主義…の上に築かれて」おり、「資本主義、国家、あらゆる制度は、この共産主義とそれが可能にする無限の創造性を孕んだ形式に寄生」しているに過ぎないというユニークな社会認識であり、それがグレーバー流のアナーキズムの出発点になっている。

その背景にあるのは、マルセル・モースの「自分の能力の範囲内で他人の必要に答えようとすることはすでに共産主義であり、その意味において共産主義はどのような人間社会にも存在している」という発想であり、「『各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る』という原理」こそが共産主義の基本であると主張する。

グレーバーはその具体例として、「二人の人が、導管を修理しているとき、一人が『レンチをとってくれないか』と言う。その際、頼まれた方は『その代りに何をくれる?』とは言わない」だろうと書いているのだが、確かにこのように考えれば「共産主義的関係性はどこにでもある」ことになり、その考えが「われわれは結局資本主義を破壊する必要はない…われわれがしなければならないことは、単にそれを生産するのをやめること」だけなのだという発想へと繋がっていくのだろう。

また、「人権論というものが最終的にアナーキストの役に立たないのも事実」という発言もなかなか刺激的であり、その理由は、それが最終的には「国家の存在を前提」にしており、「権利とはわれわれが政府に対してのみ主張しえ、政府の権威に働きかけることによってのみ、行使しえる」ものでしかないから。

そして、それに代わるものとしてグレーバーが主張しているのが「無限の負債」論であり、「われわれは自然に、あるいは社会、地球、宇宙、先行世代、あるいはわれわれの生を可能にし、われわれをわれわれたらしめているすべてのものに、無限の負債がある」というのがその内容。要するに、私が殺されないのは生きる権利があるからではなく、「世界中の皆が私を殺さない義務を負っている」から、ということになるらしい。

なお、ここで注意すべきなのは、社会の「後ろには常に『国家』が隠れている」という現実であり、「負債をどのように返報するか教えようと主張する権威」に悪用されないよう、「それをどのように返報するか決定できるのは、その当人のみ」であるということを改めて確認しておく必要がある。

一方、彼の運動家としての発言の中では、「アメリカのメディアは、正規の命令系統から発せられたものならば、警察の行動を、それが何であれ『暴挙』と報道しない」という指摘が重要であり、「9.11以降アメリカでは、国家が『戦闘規約』は変わったと決定した」にもかかわらず、マスコミが沈黙しているせいで「ガンジー戦術は駄目だ!」ということになってしまったらしい。

それに代わる戦術の一つとして考案されたのが「ブラック・ブロック」であり、そこでは、グリーン(=違法行為や対決的な行動はとらない)、イエロー(=伝統的な市民的不服従。過度に挑発的な行動や他人を傷つける可能性のある行動は控える)、レッドというように「人びとはそれぞれ自分自身の行動を決定」するのだが、同時に「(自分が認可しえない)異なった選択をする人びとの連帯を保持」しなければならない、とされる。

ちなみに、最後に収録されている矢部史郎との対談の中で、矢部が「『高踏理論』と『低理論』の問題」に触れ、ネオリベラリズムの「低理論」と闘うためには同じ「低理論」であるアナーキズムが重要であると主張したのに対し、「『高踏理論』というものは、あくまでも『低理論』のための道具にならなければいけない」と応じているところはなかなか感動的であり、それを読んで一気にグレーバーのファンになってしまった。

ということで、「アナーキズムが本当にこだわっているのは、『武器を持った人間が現れ、皆を黙らせ好きなことをやるということが決してない』ということです」という発言からも明らかなとおり、グレーバーは徹底した平和主義者であり、そんな彼が昨年9月に59歳の若さで急逝してしまったのはとても残念。とりあえず、次は「ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論」を読んでみようと思います。

サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~

2019年
監督 ダリウス・マーダー 出演 リズ・アーメッド、オリヴィア・クック
(あらすじ)
ハードコアバンドのドラマーであるルーベン・ストーン(リズ・アーメッド)は、恋人でヴォーカルのルー(オリヴィア・クック)と一緒にライヴ活動をしながらキャンピングカーの旅を続けていた。そんなある日、聴覚の異常に気づいて専門医を受診した彼は、既に聴力のほとんどが失われており、極めて高額なインプラント手術を受けない限り、再生の見込みは無いことを告げられる…


今年のアカデミー賞候補として高く評価されている作品をアマプラで鑑賞。

まあ、当然のことではあるが、突然、聴覚障害者になってしまった主人公は素直にその現実を受け入れることができず、知人に紹介された支援コミュニティに嫌々入所してからも、なかなかそこでの生活に馴染むことができない。

そんな主人公を優しく導いてくれるのがコミュニティのリーダーであるジョー(ローレン・リドロフ)であり、やり場のない焦燥感に駆られる主人公に対して彼が与えた助言は、“何もするな。我慢できないときは何でも良いから文字を書け”というもの。おそらくそれが現実を受け入れるための最善手なのだろうが、同時に、今後の人生の目的、生き甲斐みたいなものを闇雲に模索することの愚かしさを主人公に教えたかったのではなかろうか。

しかし、ようやくコミュニティでの暮らしに慣れてきた主人公はどうしても昔の生活が諦めきれず、独断でインプラント手術を受けてしまうのだが、それを知らされたジョーのコメントは“ここでは誰も耳が聞こえないことを障害とは思っていない”というもの。手術を受けたのはその信念に反する行為であり、主人公はコミュニティから追放されてしまう。

まあ、このジョーの判断に対しては評価の分かれるところだが、それは経済的な理由等からインプラント手術を受けられない人に対する配慮というだけでなく、その手術に対する不信感のようなものも影響していたようであり、手術後の主人公が得たのは金属的な雑音にまみれた不快な聴力。タイトルの「サウンド・オブ・メタル」というのは、この音のことを意味していたんだね。

ということで、決して見て楽しい映画ではないが、様々な障害との向き合い方について深く考えさせてくれる作品であり、(諦めと言われてしまうかもしれないが)それを素直に受け入れた方が幸せになれる場合も決して少なくはないのだろう。主演のリズ・アーメッドとオリヴィア・クックの自然な演技も素晴らしく、アカデミー賞候補作に相応しい佳品でした。

マ・レイニーのブラックボトム

2020年
監督 ジョージ・C.ウルフ 出演 ヴィオラ・デイヴィスチャドウィック・ボーズマン
(あらすじ)
1927年、夏。“ブルースの母”の異名を持つ人気歌手マ・レイニー(ヴィオラ・デイヴィス)のレコーディングに参加するため、トランペッターのレヴィー(チャドウィック・ボーズマン)をはじめとするバンドのメンバーがシカゴのスタジオにやって来る。しかし、1時間以上遅刻して来た彼女が白人のプロデューサーたちに無茶な要求を連発するため、レコーディングは遅々として進まない…


チャドウィック・ボーズマンの遺作になってしまったNetflixオリジナル作品。

マ・レイニーというのは実在した女性ブルース・シンガーらしいのだが、あの伝説の歌姫であるベッシー・スミスにブルースを教えたというのだから、まあ、知らないのが当たり前。本作は、そんな彼女が新曲をレコーディングするときの様子を描いているのだが、マルチトラック・レコーダーという便利な機械が存在しない当時のレコーディングはまさに一発勝負であり、その張り詰めた緊張感が堪らないほどエキサイティング!

しかし、本作の主要テーマは、当時の黒人ミュージシャンたちが置かれた社会環境を描くことであり、一見、我が物顔に振舞っているように見えるマ・レイニーも、レコード会社にとってみれば単なる商品にすぎない。彼女の傲慢さは、彼女に対して人間としての敬意を払おうとしない白人社会に対するささやかな抵抗であり、同時に、それ以上の改善を望むことの出来ない彼女の限界を示している。

そして、このような状況に怒りを覚えているのは他のミュージシャンも同様なのだが、残念ながら人種差別に抵抗する彼らの戦略はバラバラであり、黒人同士で仲間割ればかり起している。本作のもう一人の主人公であるレヴィーは新しい才能の持ち主なのだが、マ・レイニーは、そんな彼のことを“自分の地位を脅かしかねない存在”としてしか認識することができないんだよね。

しかし、本当の脅威はレコード会社による“文化の盗用”にあった訳であり、全員白人のビッグバンド・ブームの到来を予告するラストシーンは、恐ろしいったらありゃしない。結局、彼らの抵抗が公民権運動として実を結ぶにはキング牧師等の優れたリーダーが必要だった訳であり、それは現在の格差社会の打破に関しても同じことが言えるのだろう。

ということで、オーガスト・ウィルソンという人の書いた戯曲が原作になっているそうであり、映画的な回想シーンの代わりにチャドウィック・ボーズマンの長台詞を拝聴できるのもそれ故なんだろう。しかし、マ・レイニーの歌声をフルで一曲聴けるのが“ブラックボトム”だけというのは残念であり、サービスであと2、3曲聴かせて欲しかったところです。

奇譚カーニバル

1995年に刊行された夢枕獏によるテーマ・アンソロジー

編者自身の解説によると今回のテーマは“奇妙な話”であり、小泉八雲「茶碗の中」、夏目漱石夢十夜」、小川未明「大きなかに」、内田百閒「件」、幸田露伴「観画談」、横田順彌「昇り龍、参上」、山田正紀「雪のなかのふたり」、かんべむさし「俺たちの円盤」、筒井康隆「かくれんぼをした夜」、夢枕獏「柔らかい家」、椎名誠「猫舐祭」、タモリハナモゲラ語の思想」、とり・みき遠くへいきたい」、しりあがり寿「瀕死のエッセイスト」、杉浦日向子「百物語」の15作品が収録されている。

実は、上記作品の中のどれか一つを読みたいと思って本書の存在を認識した筈なのだが、老化の故か、しばらく経ってから実際に手にしてみるとそれがどの作品だったか憶えていないのが困りもの。最近の嗜好から推測すると、山田正紀しりあがり寿あたりではなかったかと思うのだが、まあ、どの作品もなかなか面白かったのでとりあえず良しとしておこう(?)。

さて、そんな中で一番印象に残ったのは小川未明の「大きなかに」であり、これが何とも言えぬ不気味な雰囲気を漂わせた逸品。ストーリーは、雪深い北国に住む太郎という少年が、海辺の村へ出掛けて行ったおじいさんの帰りを待っているというだけの内容なのだが、ようやく真夜中過ぎに帰ってきたおじいさんは、背中に大きな赤いかにを背負っている。

もう、このイメージを想像しただけで十分怖いのだが、翌朝、そのかにを料理してみると中身はスカスカであり、肉も何にも入っていない。どうやらその痩せたかには“老衰”の象徴だったようであり、「たいへんに疲れていて、すこしぼけたようにさえ見られた」おじいさんは、春になってもこたつに入ったままだった、というまさかのバッドエンドは、もう胸くそ悪いったらありゃしない。

これに対し、幸田露伴の「観画談」は、名人による講談を聴いているような気分にさせてくれる快作であり、日本語の文章がこんなにもリズミカルになるものかと唯々感心。正直、ロックにしてもラップにしても、アップテンポのリズムは日本語に向いていないと思っていたのだが、もし、露伴が現代に蘇ったら(スタンド使いの漫画家ではなく)ノリノリの日本語ラッパーになっていたかもしれないね。

ということで、小川未明幸田露伴の作品は青空文庫でも読めるのだが、作品数が多いためどこから手を付ければ良いのか分からないのが困りもの。しかし、今後の長~い老後を考えると青空文庫は無料で楽しめる貴重なヒマ潰しの宝庫であり、今のうちからKindleを使って少しずつ慣れるようにしておこうと思います。

鹿沼の大鳥屋山と大滝山

今日は、お手頃なロングコースの番外編ということで、第35弾と37弾で歩き残しになっていたところを一人で歩いてきた。

今回の目的となる尾根は、鳴蟲山の西にある699Pを北西に下ったところ(=地形図では破線の三叉路になっている。)から大鳥屋山を経由して前回の終点である小川沢林道に至る区間と、横根山を東に下ったところにある869地点から大滝山の山頂までの区間の二つ。先に前者を歩いてしまおうと、午前7時過ぎに前回目星を付けておいた林道横根線の路肩の広くなったところに車を止める。

身支度を整えて7時23分に歩き出す。間もなく、8年前に鳴蟲山から下山したときに使った林道火打石線(7時27分)に入るが、当時の記憶はもはや曖昧であり、あまり利用されていないみたいだなあと思いながら、しばらくは薄暗い林道を進んで行く。途中、別の作業道らしきものが目に入るが、沢沿いのルートは倒木が酷そうであり、そのまま8年前に使った作業道を目指すことにする。

当時のログによると地形図上の実線が破線に変わるあたりに作業道への入口がある筈なのだが、8年間における自然の影響は大きかったようであり、その先まで歩いてみても入口らしきものは見当たらない。ちょっと引き返して適当なところから沢の対岸へ渡ってみたが、目指す作業道は無数の倒木の下に隠されてしまったようであり、う~ん、困ったな。

倒木を避けるために尾根の中腹まで上がってしばらく探索を続けてみたが、どうやら作業道は諦めた方が良さそうであり、仕方がないのでそのまま急な斜面を上って東の方へトラバース出来そうなところを探すことにする。すると、悪戦苦闘の末、地形図に破線で表されているものと思われる薄い踏み跡を発見することに成功し、それを辿ってようやく目的とする尾根(8時36分)に到達する。

しかし、そこは予定していたスタート地点よりも随分北にズレており、そこから大鳥屋山を目指したのでは尾根繋ぎに大きな空白部分ができてしまう。仕方がないので、我が身の生真面目さというか、融通の利かなさを呪いながら、本来のスタート地点である破線の三叉路のところまで尾根を下っていくことにする。

途中の岩場の通過にはちょっぴり肝を冷やしたが、8時59分に何とか破線の三叉路地点まで下りてくる。周囲を見渡すと、今回利用する予定だった作業道の他にも立派なブル道がそのすぐ下を通っており、それを利用すればこんな苦労をすることはなかったと思うものの、まあ、今となっては後の祭り。

小休止の後、今下りてきたばかりの尾根を上り返すが、岩場があったり、傾斜がキツかったりするのはその区間だけであり、先程のスタート地点(9時27分)の先からはいたって呑気な尾根歩き。出だしで大きなトラブルに見舞われたものの、9時40分に大鳥屋山(811.4m)に着くことができた。

そこから先も特に問題となるような箇所はなく、尾根を外さないことだけを注意しながらどんどん歩いて行く。右から回り込めば小川沢林道(10時22分)への着地も容易であり、その後は4日前に歩いたばかりの舗装林道を再びテクテク歩いて10時48分に路肩の駐車地まで戻ってきた。

さて、次の目的地は横根山の東であり、車に乗って古峯神社経由で地形図上の869地点に移動する。“21世紀林業創造の森”の看板の前に車を止めて11時33分に歩き出すと、作業道の入口から容易に目指す尾根に取り付くことができる。作業道からはすぐに離れたが、尾根上に続くルートもとても快適であり、正直、こんなマイナーな山にはもったいないくらい。

空き缶等も転がっている故、それなりに歩く人はいるのだろうが、ルートがあまり踏み固められていないのが理解に苦しむところであり、山頂に近づくに連れて雑木の密集度が増していくのもまた不思議。おそらく、登山口付近の立派な“登山道”は人為的なものではないのだろうと思いながら、12時19分に大滝山(1070.3m)に着く。

こういったピークハント的な山歩きは慣れていないため、予想していたより随分疲れたが、これで鳴蟲山や三峰山(鹿沼)から連なる尾根をそれぞれ横根山まで繋げることができた訳であり、そこから先は古峰ヶ原~禅頂行者道を通って中禅寺湖へと続いていく…。そんなことを考えながら往路を引き返して、13時2分に駐車地へ戻ってくる。本日の総歩行距離は前半が8.3km、後半は3.0kmであり、合計では11.3kmだった。

ということで、地蔵岳や横根山を頂点とする尾根繋ぎは今回を持って一段落したところであり、まあ、我ながら飽きもせず良く歩いたものである。お手頃なロングコース第38弾の構想はまだ白紙状態であるが、今の体力を考慮すると目標を20km以上から15km以上くらいに引き下げる必要があるのかもしれません。
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