大滝山と白鬚山を周回で

今日は、お手頃なロングコースの第37弾ということで、石裂山の北西に位置する大滝山と白鬚山を一人で歩いてきた。

今回の主目的は、前回の終点である月山から大滝山までの区間の尾根繋ぎであるが、あわよくば、そこから8年前の第11弾のときの終点(=鳴蟲山の西に位置する699P付近)までの尾根も出来るだけ繋げておきたい。本当は、第35弾のときの宿題になっている869地点へも足を伸ばしたいところだが、まあ、今の体力では最初から諦めておいた方が無難だろうと思いながら、午前7時頃に鹿沼市立石裂小学校の跡地に到着する。

廃校跡地の片隅に車を止めて7時3分に歩き出す。地形図上では間もなく596Pを通る破線ルートの入口が出てくる筈であるが、やはりそれらしきものはどこにも見当たらず、仕方がないので前回の下山路を引き返すような形で無人の加蘇山神社駐車場(7時13分)~東屋の先の分岐(7時35分)。

本来ならここを左折するのが正しい“回遊登山コース”なのだが、平日の早朝なら対向者と出会うこともなかろうとそのまま月山に向かう。ここを上りで使うのは初めてのことであり、まあ、それなりに新鮮な感覚はあるものの、予想したとおりの急登の連続に月山(8時23分)に着いたときには、正直、少々バテていた。

ようやく尾根繋ぎのスタート地点に立ったばかりなのに、こんな調子では先が思いやられると思いながら先に進んでいくと、防獣ネットに伐採地、作業道(8時40分)と人の気配は濃厚であり、あまり雰囲気は良くない。しかし、8時57分に着いた小川沢峠には事前学習でお馴染みになった破損した“石裂”の標識が今でも立木に括り付けられており、これはちょっと嬉しかった。

その先の急傾斜を上って行くと、これも事前学習で何度も目にした荷物用モノレールの軌道(9時00分)が右手に現われ、しばらくの間はそれに沿って歩いて行く。その後、尾根筋が左にカーブする地点で軌道と別れると、今度は右手に舗装林道を見下ろしながら歩くことになり、最後は急斜面を慎重に下って9時49分に当該林道に着地する。

尾根の左側に下りてきたので取付き場所もそちらを探すが、適当な場所が見当たらない。仕方がないので右側へ回るとすぐに取付き地点が目に入り、そこから簡単に尾根上に復帰するが、その先での尾根の乗換えは地形図から予想していたよりもずっと大変。先の見えない急斜面を上りきって尾根上にたどり着いたときには、正直、ホッとした。

その先は楽なもんだと思っていたが、山頂の一つ手前の小ピークからの岩場の下降はそれなりにスリル満点であり、最後は少々藪っぽい尾根筋を上って10時50分に大滝山(1070.3m)。見晴らしはないが、さすがに疲れていたので持参した熱い紅茶を飲みながらしばらく休憩を取る。

さて、11時3分に再び歩き出すと、下るに従って尾根は二方向に別れており、最初は左の尾根を下りて行ったのだが途中で間違いに気付いて右に軌道修正。次の小ピークは作業道の終点(11時17分)になっており、そこから先は作業道がほぼ正確に尾根筋を辿っているため、しばらくはその道を歩いて行く。若干の罪悪感?はあるものの、そこからは日光の山々を眺めることも出来、気の抜けない本日の山行では最も楽しいひとときだった。

しかし、正面に尾根の末端(11時27分)が見えてくるとそんな作業道ともお別れであり、再び尾根歩きの始まり。Mマーク(11時46分)の前後はとても歩きやすい尾根道が続いていたが、白鬚山に近づくに連れて岩場や急なアップダウンが目立つようになり、再びバテを感じ始めた頃にようやく白鬚山(1000m。12時14分)に着く。二つある石の祠の一つは大破していた。

ここまでほとんどスマホは使えなかったが、この山頂では極めて不安定ながらLINEが通じるようであり、折角なので、小川沢林道までで尾根繋ぎを切り上げることを家族に連絡してから下山(12時32分)に取り掛かる。その先も急なアップダウンは続いており、途中からチェーンスパイクを装着して底のすり減った山靴のグリップ力を強化。それは岩場の細尾根を通過するときにもとても役に立った。

その後、枯れ葉の積もった急斜面をズリ落ちるような格好で小川沢林道(13時34分)に降り立ち、舗装道をテクテク歩いて14時33分に廃校跡地まで戻ってくる。結局、最終目標にしていた第11弾の終点にはたどり着けなかったこともあり、本日の総歩行距離は15.5kmに止まった。

ということで、老化+体重増加+トレーニング不足の三重苦の影響は否定できないが、それ以上に、岩場や急なアップダウンが頻出し、何かと気を遣わなければならないこの山域は俺には不向きのような気がする。本日の歩き残しは近日中にさっさと片付けてしまい、その次からはもっとボーッとしながら歩けるところを探してみたいと思います。
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神々の乱心

松本清張の絶筆となった未完の長編ミステリー小説。

本当は、現在読み進めている松本清張全集を読破してから読むつもりでいたのだが、まだまだ先は長そうであり、つい我慢が出来なくなって手を出してしまう。しかし、本作には直接のモデルになった「島津ハル事件」以外にも、「昭和史発掘」で作者が取り上げているエピソードが数多く関係しており、まあ、そちらを先に読んでいたことがせめてもの救いだった。

さて、本作の黒幕となる“月辰会研究所”は、1921年に発覚した大連阿片事件の関係者である秋元伍一(後の平田有信)が、満州で知り合った道院九臺子院会長の江森静子の協力を得て立ち上げた新興宗教団体であり、本拠地は埼玉県比企郡梅広町(=この町は架空のものらしい。)にある。

そして、その月辰会の秘密に迫るのが埼玉県特別高等警察課第一係長の吉屋謙介と子爵家の次男坊である萩園泰之の二人であり、別々の有能な探偵がお互いに付かず離れずの関係で事件の捜査に当たるという設定は、ちょっと珍しいのではなかろうか。

面白かったのは、月辰会の本拠地が埼玉県ということで、個人的に馴染み深い場所、地名等が頻出するところであり、例えば、その別院とされる喜連庵が所在するのは、先日、妻と一緒に訪れたばかりである唐沢山の麓。その傍にある天応寺というのはさすがに架空の寺だろうと思ったが、念のため地図で調べてみたら今でもちゃんと存在していた。

また、これに限らず、大から小まで、作者の蘊蓄がたっぷり詰め込まれているところも本作の大きな魅力の一つであり、直接ストーリーに関係のない事物についてもそれなりに詳細なコメントが添えられていることが多い。まあ、最近の流行には反するのかもしれないが、それが大作ならではの風格のようなものを醸し出しているのだろう。

しかし、その傾向は物語が進むに連れて次第に影を潜めてしまい、最後の「月辰会の犯罪」では、重要だったはずの殺人事件の謎が秋元と静子の会話だけで次々に明かされてしまうという、まさかの駆け足状態。作者は「連載はあと10回も要らないよ」と言っていたらしいが、おそらくそれは自らの体調不良に気付いたことによる軌道修正の結果であり、体調が万全であれば小説版「昭和史発掘」ともいうべき大長編小説になっていたのではなかろうか。

ということで、皇室内の派閥争いがテーマになる前に終ってしまったのはとても残念なことであり、きちんと完結していれば天皇制に内在する暗黒面みたいなものに対する言及も期待できたかもしれない。誰か、この続編を書いてみようと思う勇気あるミステリー作家は出てこないのでしょうか。

この茫漠たる荒野で

2020年
監督 ポール・グリーングラス 出演 トム・ハンクス、ヘレナ・ゼンゲル
(あらすじ)
1870年の米国テキサス州。各地を転々としながら聴衆に新聞記事の読み聞かせをすることを生業にしていた退役軍人のジェファーソン・カイル・キッド大尉(トム・ハンクス)は、ひょんなことから、カイオワ族に育てられた白人少女ジョハンナ(ヘレナ・ゼンゲル)を彼女の親戚の元へ送り届ける役目を引き受けることになる。しかし、その地域の治安は最悪であり、旅は長く、そして厳しいものになることが予想された…


我が国では劇場公開が見送りになってしまったポール・グリーングラス監督の最新作。

コロナ禍や全米での興業成績が振るわなかったことが影響しているにしても、グリーングラストム・ハンクスのコンビによる作品をお蔵入り(?)にしてしまうのは、とんでもない暴挙としか言いようがない。仕方がないので、半年くらい前に解約していたNetflixとのヨリを戻し、たまたま休みで家でゴロゴロしていた娘と一緒に鑑賞に臨む。

さて、内容はいたって王道の西部劇映画であり、最初は「勇気ある追跡(1969年)」みたいな話になるのかと思って見ていたのだが、ストーリーは、初老の主人公と英語の話せない少女との心の交流を描くことがメインになっており、ラストの展開を含めて、むしろ西部劇版の「ペーパー・ムーン(1973年)」と言うべきかもしれない。

主演のトム・ハンクスの年齢を考慮してか、アクション・シーンは控え目であり、グリーングラス監督お得意の手持ちカメラによるハラハラドキドキの映像は見られないものの、西部の大荒野を背景にした美しい映像は、まあ、彼の新境地と好意的に評価することも可能。返す返すも映画館の大スクリーンで見てみたかった。

ちなみに、原題は原作小説と同じ「News of the World」であり、正直、本作のイメージからするとちょっと違和感があるのだが、ひょっとすると、当初の構想では、例の“独裁者が発行する自画自賛のインチキ新聞”に関するエピソードをもっと膨らませて、“フェイクニュース批判”をメインにしようとしていたのかもしれないね。

ということで、これで現在我が家が契約している配信サービスは、アマプラ、U-NEXT、ディズニープラス、そしてNetflixの4社になってしまった。まあ、コロナ前は月に1、2回、家族で映画館に通っていたことを思えばこれでもむしろ安上がりなのだが、できれば国営放送に成り下がったNHKだけでも解約したいところです。

黒い皮膚・白い仮面

精神科医であり、理論家・革命家としても知られるフランツ・ファノンが1952年に発表した著作。

昨年来のブラック・ライブズ・マター運動の影響もあって読んでみたいと思っていた本の一つなのだが、NHKの「100分de名著」で取り上げられるというニュースを耳にして慌てて市立図書館にリクエスト。幸い、まだ先約はなかったようであり、すんなりと借りることが出来た。

さて、著者自身が「こういう事柄を書くとき、私は、感情の次元で読者をつき動かそうとするのです。…つまり、非合理的に、ほとんど官能的ともいえる仕方で」と言っているとおり、なかなか“わかりやすい”とは言い難い文章であり、抽象的な表現が多いこともあって、正直、いつものやり方で要約するのはちょっと難しそう。

そこで、とりあえず気になったところだけ抜粋してみようと思うのだが、最も興味深かったのは、「殖民地化された民族はすべて―言いかえれば、土着の文化の創造性を葬り去られたために、劣等コンプレックスを植えつけられた民族はすべて―文明を与える国の言語に対し、すなわち本国の文化に対して位置づけられる」という指摘であり、白人社会で暮す黒人は無意識のうちに「黒=醜い、罪、暗黒、不道徳な」という価値観を白人と共有してしまうらしい。

そのため、彼らは「実生活において道徳的な男として振舞えば、私はニグロでなくなる」と考えて必死に努力するのだが、現実的には「本当の白人が私を待ち設けている。最初の出会いから彼は私に言うだろう。志向が白いだけでは足りない、白い全体性を現実化しなければならない、と」という訳で、残念ながら決して報われることはない。

このような心理過程を「なぜなら、あなたがたの心の奥深くに、依存コンプレックスがあるからだ」と説明しようとする学者もいるらしいが、それを著者は「劣等意識化とは、ヨーロッパの優越意識化の土着的相関物である。劣等コンプレックス症を作るのは人種差別主義者であると明言するだけの勇気を持とうではないか」と厳しく批判している。

そして、「彼が、これほどまでに、白人になりたいという欲望に浸されているのは、彼の劣等コンプレックスを可能にする社会、このコンプレックスを維持することから自己の堅固さを引き出している社会、一つの人種の優越性を主張する社会に彼が暮しているからである。…精神分析医として私は、患者が自己の無意識を意識化し、二度と幻覚の乳白化を試みぬよう、そうではなく、まさしく社会構造の変革という方向で行為するように助けなければならない」というのが、本書における結論の一つになっている。

もう一つ興味深かったのは、著者の出身地である仏領マルティニーク島における特殊事情であり、そこに住んでいる「アンティル人はアフリカの黒人に比べて、より『開化』している」と考えているのが一般的で、一方、「ダメオー、あるいはコンゴ生まれで、自分はアンティル人であると称する」アフリカ人も存在するらしい。

しかし、当然、「事実は彼はニグロなのだ。そのことに彼はひとたびヨーロッパに行けば気付くことになるだろう」ということになり、最初はそんな彼らの愚かしさを笑いながら読んでいたのだが、よくよく考えてみれば、「アンティル人は、争うべからざる指揮者として、黒んぼたち全体の上に君臨するのである」という思想は、戦後の我が国における「黄色いバナナ」意識とほとんど同根であり、まあ、我々日本人も決して劣等コンプレックスと無縁ではないのだろう。

そして、ネグリチュードに内在する限界にも気付いてしまった著者の本書における結論は、「人間が人間的世界の理想的存在条件を創造することができるのは、自己回復と自己検討の努力によってである。己の自由の不断の緊張によってである。…私の最後の祈り、おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」というものであり、この問題に安直な解決策は用意されていないようである。

ということで、人種差別の問題だけ取り上げてみても、我が国の人権意識の立ち後れは顕著であり、ブラック・ライブズ・マター運動を対岸の火事と考えている余裕など絶対にない筈。いつまでも「ジャングルの奥の蛮人」気分に浸っていると、そのうち痛い目に遭うことは避けられないでしょう。

スウィング・キッズ

2018年
監督 カン・ヒョンチョル 出演 D.O.、ジャレッド・グライムズ
(あらすじ)
1951年、朝鮮戦争真っ只中の韓国。北朝鮮軍と中国軍の捕虜を収容する巨済捕虜収容所では、共産主義と反共産主義に分かれた捕虜たちによる血なまぐさい抗争が絶えなかったが、新所長として赴任してきたロバーツ准将は、マスコミ向けのイメージ戦略として捕虜たちによるダンスチームの結成を思い付き、ブロードウェイダンサーだった下士官のジャクソン(ジャレッド・グライムズ)にその担当を命じる…


実在した捕虜収容所を舞台にした韓国製ダンス・ムービー。

U-NEXTの有料配信で見たのだが、まあ、捕虜収容所が舞台というのはちょっと目新しいものの、寄せ集めの素人相手にダンステクニックをたたき込んでいくというストーリーは青春映画等でもありがちな話であり、抜けるように明るい映像のせいもあって、軽~い気持ちで鑑賞を開始する。

前半はほぼ予想どおりの展開であり、北朝鮮軍の英雄の弟であるロ・ギス(D.O.)は、その反共産主義的なイメージに戸惑いながらも、ジャクソンの披露する華麗なタップダンスに次第に魅了されていく。一方、東洋人にタップダンスは無理と考えていたジャクソンも、ロ・ギスの卓越した能力を見て考えを改め、一緒にカーネギーホールの舞台に立つことを夢見るようになる。

ロ・ギス以外の男女3人のメンバーはいずれも個性派(?)で占められているため、前半はコメディ色が強く、まあ、これも想定の範囲内なのだが、終盤、身体に大きな傷を負った捕虜の出現を契機に雰囲気は一転。収容所内の共産・反共の対立が再びクローズアップされ、クリスマス公演で素晴らしいパフォーマンスを披露した4人には悲惨な運命が待ち受けていた。

正直、俺が韓国映画を苦手とする一因である“ドロ臭さ”は本作にも残っており、この内容をハリウッドが映画化していればもっと洗練されたスマートなダンス・ムービーに仕上がっていたと思うのだが、その場合には、ラストの衝撃はもっと作り物めいた印象になっていた筈であり、おそらく本作にはこのドロ臭い演出が似合っているのだろう。

ということで、一番驚いたのは、形式的には味方であるはずの米軍をきちんと(?)悪として描いているところであり、これは我が国の映画界ではタブーになっているんじゃなかろうか。今回のコロナ禍への対応面でも韓国の先進性にはいろいろ驚かされてきたところであるが、どうやら映画の分野においても相当の差を付けられてしまっているようです。

唐沢山を麓から

今日は、妻と一緒に佐野市にある唐沢山を麓にある露垂根神社から歩いてきた。

この山は6年くらい前にやはり妻と歩いたことがあるのだが、そのときは山頂付近の駐車場まで車で上ってしまった故、一度きちんと麓から歩いてみたいと思っていた。調べてみると、露垂根神社の隣にある唐沢山ポケットパークを利用して周回するコースが面白そうであり、午前10時前、残り2台分の空きしかなかった当該駐車場に滑り込む。

唐沢山への登山口は道路を挟んだすぐ反対側にあり、まずは露垂根神社の壁面を飾る「竹林の七賢」の彫刻を見学した後、9時59分に登山口に入る。尾根筋のやや西側に付けられたルートは、まったくと言って良いほどアップダウンのない緩やかな坂道であり、あんまり山歩きっぽくないなあと悩みながら、10時26分につつじヶ丘入口に到着。そろそろ参拝者とのすれ違いも増えるだろうと、ここでマスク代りのネックゲイターを装着する。

その先で薄茶色の猫の歓迎を受けてから舗装された参道(10時30分)に入り、石段を上って10時34分に唐沢山神社本殿の建つ山頂(241m)に着く。その後、名物になっている数匹の猫と遊んだりしながら境内を散策するが、参拝者の数はそれ程多くはないのでソーシャルディスタンスの確保は容易。季節ハズレの春霞のせいで天狗岩(11時5分)からの眺望はイマイチだったが、11時17分に鏡岩ハイキングコースを使って下山に取り掛かる。

こっちでも途中までグレーの猫のお見送りを受けるなど猫神社の歓送迎態勢は万全であり、次回は猫好きの娘の同行もアリかなあと考えながら、11時30分に初心者コースとの分岐に着く。この初心者コースというのは小ピークの巻き道のことであり、その後も2度ほど出てくるが、いずれも使わずに権現堂(226m。11時32分)~飯守山(218m。11時40分)~岡崎山(11時50分)。

その先で再び舗装道路(11時55分)に出てしまうが、本日、試しに使ってみたスマホの“ヤマレコ”アプリによると、しばらく進んだ先から左手の尾根に取り付くルートがあるらしい。12時5分に着いたその分岐には二本の踏み跡が見られたが、最初に使った左手の踏み跡は間違いであり、すぐに引き返して右手の踏み跡に入る。

最初は民家の裏庭にでも続いていそうな雰囲気だったが、間もなく立派な山道へと変貌を遂げ、それを上って12時18分に東屋の建つ山頂(192m)に到着する。なかなか見晴らしの良い場所であるが、浅間山と呼ばれるそのピークには昔は浅間神社が建っていたそうであり、今でも「おたきあげ」という火祭りが行われているそうである。

そんな内容の案内板が立っている小梥神社(12時39分)まで下りてくると、あとは駐車地に向かって街中を歩いて行くだけ。妻に気を遣って最短距離を取ったため、途中、唐沢ゴルフ倶楽部のコースを横断することになってしまい、ちょっと焦ったが、何事もなく13時26分に唐沢山ポケットパークに戻ってくる。本日の総歩行距離は8.4kmだった。

ということで、途中、「岳乃屋」というお店に立ち寄り、久しぶりに佐野ラーメンの味を堪能してから無事帰宅。娘用のお土産に購入したチャーハンもなかなか好評であり、次回があるとすれば、猫とチャーハンをエサに使って、娘を山歩きにおびき出す作戦も検討してみようと思います。
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野いちご

1957年
監督 イングマール・ベルイマン 出演 ヴィクトル・シェストレム、イングリッド・チューリン
(あらすじ)
78歳の医師イーサク(ヴィクトル・シェストレム)は、長年の功績が認められてルンド大学から名誉博士号を授与されることになる。しかし、その式典の前夜、自らの死を予見するような悪夢にうなされた彼は、急遽、飛行機の予定をキャンセルし、車で式典の行われる会場へ向かうことにする。その旅には、ちょうどイーサクの家を訪れていた息子の妻マリアン(イングリッド・チューリン)が同行することになるのだが…


「処女の泉(1960年)」に並ぶイングマール・ベルイマンの代表作の一つ。

マリアンに言わせると、主人公であるイーサクの性格は“エゴイスト”であり、既に亡くなっている彼の妻との夫婦仲も決して円満なものではなかったらしい。そんな環境で育った一人息子のエヴァルドも“家庭”というものに絶望しており、困ったマリアンはイーサクに相談するために彼の家を訪れた訳であるが、彼の回答は“お前たちの問題で私を悩ませるな”。

まあ、そんなイーサクにも、若かりし頃、婚約者である従妹のサーラと過ごした野いちごのように甘酸っぱい思い出があるのだが、結局、真面目すぎる性格が災いして女たらしの弟に彼女をさらわれてしまう。おそらく、そんなふしだらな従妹の仕打ちも彼の人間嫌いな性格の一因になっているのだろう。

さて、本作は、そんな主人公の悔い多き人生をなぞるように進むロードムービーになっており、最初に登場する若い娘サーラ(=二人の青年と一緒に旅をしており、名前ばかりか、容姿もかつての従妹にそっくり!)は主人公の青春時代を、妻に冷淡な言葉を浴びせかける夫は主人公の夫婦生活を、そして最後に登場する主人公の老母は彼の今後の人生を表しているように思われる。

しかし、実際の人生と異なるのはそこに女神のように美しいマリアンが同行していることであり、彼女の的確なアドバイスにも助けられて、無事、かつての従妹サーラとの仲直りにも成功。実は、マリアンはエヴァルドの子を身籠もっており、おそらくこれからの主人公の人生はなかなか賑やかなものになるのではなかろうか。

ということで、エゴイストな老人に対する刑罰は“孤独”だそうであり、性格的にちょっと主人公に似たところのある俺にとってはなかなか耳に痛い話。公開当時、まだ50歳にも満たなかったベルイマンがこのようなテーマを取り上げたことについてはやや複雑な気持ちが残るが、同じく、公開当時31歳だったイングリッド・チューリンがとても美人だったので、まあ、大目に見ておきましょう。