バジュランギおじさんと、小さな迷子

2015年
監督 カビール・カーン 出演 サルマーン・カーン、ハルシャーリー・マルホートラ
(あらすじ)
インドのデリーで暮らしているパワン(サルマーン・カーン)は、町中で出会った口の利けない迷子の幼女(ハルシャーリー・マルホートラ)になつかれてしまい、やむなく居候先の家に連れて帰る。その後も手掛かりがつかめずに困っていたところ、TVでクリケットの国際試合を見ていた彼女がインドではなく、相手方のチームを応援していることに気付いて吃驚仰天。何と彼女は異教徒のパキスタン人だった…


娘のリクエストにお応えして、バーフバリ二部作以来となるインド映画を鑑賞。

映画の冒頭では、パキスタンカシミール地方に暮らしていた6歳の少女シャヒーダーが母親と一緒にデリーのニザームッディーン廟を訪れ(=勿論、その目的は彼女の口が利けるようになることの祈願)、帰国の際に迷子になってしまう様子がきちんと描かれており、観客は、そうとも知らずに彼女を自宅に連れ帰ってしまう主人公パワンのお人好しぶりを、しばらくの間、ニヤニヤしながら見守ることになる。

彼の別名である“バジュランギ”というのは、彼の信仰しているハヌマーン神のことを指しているそうであり、その性格は「正直、忠実で勇敢にして親切」。本作の後半、パワンがシャヒーダーを連れてパキスタン密入国しようとするときには、このバカ正直さが様々な障害になるのだが、迷子になったシャヒーダーが見ず知らずのパワンに救いを求めたのもそのバカ正直さの故であり、結局、それが人々の心を動かして最上のハッピーエンドを迎えることになる。

まあ、現実社会ではこんなバカ正直さが幸福に結びつくことは極めて稀であり、洋の東西を問わず、その傾向はますます強まっているような気がするのだが、本作はそのような傾向を好ましく思わない人々の“祈り”であり、それが「インド映画世界歴代興行収入第3位」の座をキープしているというのは、とても喜ばしいことだと思う。

ということで、本作の祈りの対象となっているもう一つの問題は、カシミール地方を巡るインドとパキスタンの領有権争い。残念ながら、インドのモディ首相の強硬姿勢によって再び両国間の緊張が高まっているようであるが、これは決して他人事ではなく、徴用工問題への意趣返し的な輸出規制強化によって韓国との関係悪化を招いた我が国政府からも同じ腐臭が漂ってくる。こうした隣国との対立を煽る行為が政権の支持率アップに繋がるというのはとても危険な状況であり、早急に輸出規制強化を撤回した上で関係修復に務めるべきでしょう。

ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール

2014年
監督 スチュアート・マードック 出演 エミリー・ブラウニング、オリー・アレクサンデル
(あらすじ)
スコットランドグラスゴー。拒食症の治療のために入院しているイヴ(エミリー・ブラウニング)の唯一の楽しみは、ラジオから流れてくる音楽を楽しむこと。ある日、病院を抜け出して町のライヴハウスにやって来た彼女は、そこで出会ったギタリストのジェームズ(オリー・アレクサンダー)や彼の知人であるキャシーと意気投合し、彼ら一緒にオリジナルの音楽を作り出そうとするのだが…


ロックバンドのメンバーが脚本・監督を担当したという“青春ミュージカル映画”。

ラ・ラ・ランド(2016年)」や「グレイテスト・ショーマン(2017年)」の大ヒットにより第何次目かのミュージカル・ブーム到来と期待しているのだが、なかなか思うように新作が公開されずストレスは溜まる一方。仕方がないので何か未見の作品はないかと調べてみたところ、引っ掛かってきたのがこの作品であり、音楽がテーマだということ以外は全く予備知識無しの状態で鑑賞に臨む。

さて、内容は完全な青春映画であり、主人公イヴの主治医である中年女性を除くと、主要な登場人物は男も女も若者ばかり。おまけに彼女らのファッションから街並みに至るまで、映し出される映像はとにかくお洒落な感覚に溢れており、正直、還暦過ぎのオヤジが一人で見るのには少々気恥ずかしい気分が無きにしも非ず。

これで音楽がパンクロックか何かだったらそこに救いを求めるところだが、本作の主人公たちの求めている音楽はもっとポップで耳ざわりの良いものであり、やっぱりお洒落な感覚に満ち溢れている。まあ、決して嫌いという訳ではないが、そこは還暦過ぎのオヤジとは無縁の世界であり、主人公たちの“自分探しの旅”を暖かく見守るばかり。

結局、主人公のイヴがロンドンの音楽学校に入るため、ジェームズやキャシーを残したまま一人で故郷を後にするところで終るのだが、そんな音楽版「青春群像(1953年)」的な展開がいま一つ腑に落ちないのも、そのハードな結末が本作のお洒落な感覚と上手くマッチしないからなのかもしれない。

ということで、残念ながら満足度という点では低評価とならざるを得ないところだが、その責任はもっぱら当方にあり、20代くらいまでの人が見れば結構楽しめるんじゃなかろうか。一番悪いのは、中高年にも楽しめるようなミュージカル映画の新作を公開してくれないハリウッドであり、ベンジ・パセクとジャスティン・ポールのソングライター・チームは今頃何をしているのでしょうか。

水木しげる 魂の漫画展

今日は、妻一緒に宇都宮美術館で開催中の「水木しげる 魂の漫画展」を見てきた。

連日の猛暑により、山歩きの方は古賀志山への早朝散歩だけで済ませてしまい、遅い朝食の後、妻と一緒に涼しい美術館へ向かう。一応、娘にも声を掛けてみたのだが、水木しげるに対する思い入れはそれ程でもないらしく、どうぞお二人でとのつれない回答。まあ、このへんの世代間ギャップには如何ともし難いものがある。

さて、例によって会場は2つに別れており、第1会場では幼少時から「ゲゲゲの鬼太郎」等のヒットで人気漫画家になるまでの経緯が要領よく紹介されている。幼い頃から“絵を描くことに関しては神童”と言われていたそうであり、妻と二人して“やっぱり、偉くなる人は最初っから我々とは違うんだね”と感心することしきり。

一番面白かったのは、一時期、水木しげるのアシスタントを務めていたという池上遼一へのインタビュー映像であり、会場にも展示されていた「雪女」の作画はもっぱら彼が一人で担当したとのこと。また、水木は効果線等を引くのに決して定規は使わなかったとか、オチに悩んだときには近所に住んでいたつげ義春に相談していたという話も大変興味深かった。

第2会場では鬼太郎、悪魔くん河童の三平の“人気三大漫画”以外の作品が展示されており、特に自身の戦争体験に基づいた諸作品からは何とも言えぬ迫力のようなものが伝わってくる。しかし、それらの作品に対する当方の知識はいたって貧弱であり、やはり水木しげるが今でも高い知名度を誇っていられるのは、奥方の書かれた「ゲゲゲの女房」(とそのTVドラマ化)の功績によるところが大きいのだろう。

ということで、水木しげるの評価が高いことに関しては何の異論もないのだが、最期まで第一線で活躍をし続けた我らが横山光輝に対する死後の評価がいま一つパッとしないことがとても残念。ギレルモ・デル・トロあたりが妖艶なCGを駆使して「伊賀の影丸」を映画化してくれれば、彼の再評価は間違いないと思うんですけどねえ。

キリスト教の創造 ―容認された偽造文書―

バート・D.アーマンという新約聖書・原始キリスト教史の研究者が2011年に発表した本。

新約聖書の歴史的な成立ちについては、以前、加藤隆の「『新約聖書』の誕生」で勉強したのだが、本書はその裏に隠された“偽書”の存在にスポットライトを当てた著作であり、「実はペトロの名を冠した二つの書、すなわち『ペトロの手紙』一、二が新約聖書に収められている。どちらもペトロの作とされているが、彼が作者でないとする揺るがしがたい根拠がある」といった衝撃的(?)なエピソードがぎっしり詰め込まれている。

ここで著者が偽書と呼んでいるのは「別人(著名人)が書いたかのように見せかけている文書」のことであり、例えば「ほとんどの黙示録は、過去の有名な宗教家の名を借りたスーデピグラフィー(=著名人の名を騙った)」であるとのこと。初期キリスト教社会においては、「ユダヤ教徒や異教徒との衝突」に勝利するため、そして「キリスト教教会の頭痛の種だった内部闘争」に生き残るための手段として「文書を偽造するという戦法」が盛んに行われたらしい。

その結果、「新約聖書には、パウロが書いたとされる13通もの書簡が編入されており、実に新約聖書の半分近くを占めている。だが、そのうち6通は、おそらくパウロの作ではない」という異常事態を招来してしまった訳であるが、「驚くほど多くの学者が、聖書には偽書が収められているかもしれないが、それらの偽書は、誰かを欺くために作成されたわけでは決してないと主張している」。

彼らは、「神の精霊から霊感を受けたから…」、「有名な先達の思想を継承しているから…」、「作者として名前が記されている本人が、自分とは文体が違う秘書に書かせたから…」といった様々な理屈をつけて偽書の存在を擁護しようとするのだが、「それを裏づける十分な証拠は、古代資料を隅から隅まで読んでも見当たらない」し、「古代でも、偽造活動に従事した人間は、読者を欺く目的で嘘をついていると厳しく糾弾されていた」というのが著者の主張。

一方、四つの福音書に関しては、「作者として名前を冠された人物が、自分の著作と嘘をついているわけではない。後世の読者が勝手に名前をつけたのだ。つまり偽造ではなく、他人の名目を借用しただけである」として偽書には当たらないとしているのだが、「歴史的事実につき語っていると言われる多くの物語を、新約聖書のなかに見出せるが、しかし実際は作り話が多い」のは否定できない。

例えば、「アウグストゥス帝の時代には、ヨセフとマリアをイエスが生まれる前に、ベツレヘムに行かせるような人口調査は行われなかった。また東方の賢人をイエスのところに赴かせるべく導いた不思議な星も出ていなかった。ベツレヘムのすべての男の子を殺すよう、ヘロデ大王が命じたという事実もなかった。イエスとその家族が数年間エジプトで暮らしたという事実もなかった」。

また、「『ヨハネ』に載っている有名な姦通女の話…『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』。この話は、最も古い写本には出てこない。…この話自体はすばらしく、力強く、また多大の影響力を持ちうるものではあるが、あとから写字生によって付け加えられたという点に関しては、新約聖書の研究者のなかでは異論はない」という話にはちょっと吃驚。

まあ、最終の第8章では「親が子供に自分の信仰について教える場合、実際には信じていなくても、神は存在すると話して聞かせることに問題はないかもしれない…真実を伝えるよりも偽の情報を流すに足る大切な目的のためなら」と述べてはいるのだが、それがウォーターゲート事件モリカケ問題を許容するような“美しい嘘”に繋がりかねないのも事実であり、「恐らく突き詰めれば真実は嘘に勝るのだ」というのが著者の結論と言って良いだろう。

ちなみに、本書で一番印象に残ったのは「初期キリスト教の持つすばらしさの一つは、あまたの教師や集団の主張が、千差万別であることだ」という文章であり、そんな多様性を「使徒の『権威』による裏づけ」を悪用して原理主義化してしまったのが最大の問題。その結果、「イエスの教えのうえに築かれた宗教ほど、争いへの傾向が甚だしい宗教は、人類史上他に例を見ない。イエスは、言葉通り、本当に剣をもたらしたのだ」ということになった訳だが、これって明治政府による“国家神道の創造”と同じことなんだろう。

ということで、テーマ的にはちょっとスキャンダラスな雰囲気が漂っているものの、内容はいたって真面目であり、そのうち同じ著者の「捏造された聖書」も読んでみようと思う。なお、上記以外にも勉強になるエピソード等が沢山紹介されているので、備忘録的にそれらのいくつかを以下に記録しておこうと思います。

1 古代宗教は、絶対的な何かを信じるよう、人びとに強制しなかった。宗教とは、すなわち正しい手順にのっとって儀式を執り行うことだった。…現代宗教と古代宗教のいま一つの重要な違いは、古代の多神教が来世について大して関心がなかったことである。こうした多神教はもっぱら現世に目を向けていた。

2 黙示録(この言葉は「明らかにする」とか「明かす」という意味のギリシャ語に由来する)は、命に限りのある人びとがこの地上で起こる出来事の意味を理解する助けとなるよう、天国の真実を解き明かした文書だ。

3 パウロ…は、キリストの死と復活を信じることこそ、神の前で義となる唯一の道だと説いた。さらに、イエスの信徒になるにはユダヤ教徒である必要はなく、ユダヤ教徒も異教徒も等しく救済されるとした。…律法を遵守することは、見当違いより質が悪い。なぜならキリストの死が救済には不十分だと考えていることになるからだ。

4 四大福音書によれば、この使徒の本名はシメオン(=一般的にはシモン)である。イエスは、ペトロが教会の礎となる岩(ギリシャ語のpetros)になるだろうという意味を込めてこのように命名した。だから、ペトロは自分自身を「Rocky」(!)あるいはペトロと呼んだ。

5 ユダヤの律法を人びとに与えた神は、律法を破り罪を犯した人びとを救った神たりえない、というのがマルキオンにとっては当然の帰結だった。要するに、旧約聖書の神は、イエス使徒パウロの神ではないのだ。文字通り二体の神がいるのである。…イエスの神は旧約聖書の神ではなく、したがって世界の創造主ではない…

6 前の時代に生きていたイエス同様、パウロは自分たちが終末期に生きていると確信していた。イエスの復活は、世界の終焉がすでに始まっており、死者の復活が目前に迫っている兆しだった。…もしイエスがすぐに―たとえば今月中に―戻ってくると考えているなら、教会を組織化するための階級制度や指導者は大して必要ない。

7 イエスの信者にとって、旧約聖書はイエスの「再」来という強烈な状況だけでなく、彼の「最初」の出現に関わる重要な出来事も予言しているはずだった。そのためキリスト教徒は旧約聖書をひっくり返して、イエスの誕生、人生、死及び復活に言及していると解釈するのに都合のいい文言を、目を皿のようにして探した。…ところが、ほとんどのユダヤ教徒は納得しなかった。というのも、実際にはこれらのくだりはメシアのことを言っているわけではないからだ。

8 この言葉(=マタイによる福音書の「その血の責任は、我々と子孫にある」という台詞)を口にすることで、ユダヤ人の群衆は、イエスを殺す罪を背負うだけでなく、彼らの子孫もその罪を受け継ぐことを表明したのだ。何世紀もの間、ユダヤ教徒と敵対するキリスト教は、イエスの死の責任がユダヤ人にあると糾弾し、その報復として彼らに恐ろしい暴力行為を振るう口実に、この台詞を利用した。

9 ローマ帝国におけるキリスト教…は…厳密に言えば、他の宗教同様、全く禁じられていなかった。(しかし)共同体に紛れ込んでいる集団が正しい崇拝を拒み、神々など存在せず、彼らが邪悪な悪霊だと言い張ったり、最低限の公の礼拝方法を怠ったりしているなら、共同体を襲った災害を招いた張本人はこの集団だという疑惑が生じる。キリスト教教会はまさにそのような集団だった。

10 この浅はかな創造主が旧約聖書の神、すなわちユダヤの神である。したがって、私たちが住む物質世界は善い場所ではなく、牢獄なのだ。…救済の目的は…創造主…の魔の手から逃れることだ。…抜け出すための知識(=gnosis)…を授けるために神の領域から降臨したのがキリストである。したがって…彼は血肉を備えた存在ではなかった。…これがグノーシス派の世界観、キリストの在り方だ。キリストの死はたいした問題ではない。

11 4つの福音書命名された由来は次のとおり。
マタイによる福音書:最もユダヤ的な内容であるため、ユダヤ人であるマタイの名が冠せられた。
マルコによる福音書:ペトロの視点から書かれているため、ペトロの右腕として知られるマルコの名が冠せられた。
ルカによる福音書パウロの視点から書かれているため、同じ人物によって書かれたとされる「使徒言行録」の作者であり、パウロの仲間でもあった非ユダヤ人のルカの名が冠せられた。
ヨハネによる福音書:愛すべき弟子によって書かれたとされるため、イエスに最も近しい弟子の一人であるヨハネの名が冠せられた。

ライオン・キング

今日は、妻&娘と一緒にディズニー映画の最新作である「ライオン・キング」を見てきた。

つい先日、実写版の「アラジン(2019年)」を見たばかりだというのに早くも次の作品の公開であり、う~ん、最近のディズニー映画はヤケに強気だなあ。出来ればもう少し「アラジン」の余韻に浸っていたいような気もするが、予告編で子猫のように愛くるしいシンバの姿を見せられては如何ともしがたく、昨日までのUSJ旅行で疲れ果てた老体にムチ打って映画館へ向かう。

さて、ストーリーは原作であるアニメ版の「ライオン・キング(1994年)」とほとんど同じであり、叔父に当たるスカーの策略によって父ムファサを失い、王国を追われた主人公のシンバが、幼馴染みのナラとの再会をきっかけにして忘れかけていた己の使命を思い出し、見事故郷に凱旋を果たす、というもの。

見終わってから確認したところによるといくつか原作と異なっている部分もあるらしいのだが、見ているときに気付いたのはティモンとプンバァが「美女と野獣(2017年)」の“Be Our Guest”のパロディを披露してくれるところくらいであり、正直、ストーリー面においては全く新鮮味は感じられない。

しかし、そんな年寄りの不満を吹き飛ばしてくれるのがその素晴らしい映像美であり、ライオンをはじめとする多くの野生の動物たちがアフリカの大自然の中を自由に動き回る様子を優れたCG技術で完璧以上に“再現”してくれている。(ちなみに、“Circle of Life”冒頭の1ショットだけはアフリカで撮影された実写映像なのだそうである。)

勿論、本来夜行性であるライオンが真っ昼間から動き回ったりするのは変であり、ミーアキャットやイボイノシシと共同生活を営むはずもないのだが、そういった不自然さを(少なくとも)見ている間は全く感じさせないところは見事なものであり、それがディズニーのいう“超実写版”の意味するところなんだろう。

同じジョン・ファヴロー監督の手掛けた「ジャングル・ブック(2016年)」を見たとき、“これで最早動物映画に出来ないことは何も無いだろう”と思ったものだが、その思いを実証してくれたのがこの作品であり、う~ん、ここまで完璧に出来てしまうとニセモノの動物ドキュメンタリー映画を見せられても(素人目には)全く区別できないのではなかろうか。

ということで、家族一同、十分に楽しませて頂いたのだが、見ている最中に“ストーリーを知らないで見ていたらもっと感動的だったろう”と感じたのも事実。幸い、現在制作中の「ムーラン」はアニメ版を見ていないので、実写版を見るまでの間、出来るだけ予備知識を頭に入れないよう注意したいと思います。

博士と彼女のセオリー

2014年
監督 ジェームズ・マーシュ 出演 エディ・レッドメインフェリシティ・ジョーンズ
(あらすじ)
名門ケンブリッジ大学の大学院で理論物理学を研究していたスティーヴン・ホーキングエディ・レッドメイン)は、パーティで知り合った文学部の学生ジェーン(フェリシティ・ジョーンズ)と恋に落ちる。その後、彼はALSを発症し、医師から余命2年と宣告されてしまうが、ジェーンは周囲の反対に怯むことなくスティーヴンとの結婚を選択。2年後には長男ロバートも生まれるのだが…


エディ・レッドメインアカデミー賞主演男優賞に輝いたスティーヴン・ホーキングの伝記映画。

ホーキングといえばブラックホールは外せないということで、本作中にも彼がホーキング放射の存在を発表するシーンなんかが出てくるのだが、メインテーマになるのは理論物理学ではなく、彼とその妻ジェーンとの夫婦関係の方。正直、前者を期待していた人(=俺を含む。)には相当物足りないが、まあ、ホーキングの人となりを知ることも決して無駄ことではないだろう。

さて、余命2年のつもりで結婚したら、20年以上経ってもまだまだ(いろんな意味で)お盛んなんだから、まあ、お互い“こんなハズでは”と戸惑う事情も少なからずあったハズ。当然、予想されるのは妻の浮気だろうが、博士もなかなかのものであり、随意筋は衰えてもあちらの方は別の仕組みでしっかり機能しているらしい。

結局、結婚26年目にして二人は離婚してしまうのだが、その原因が博士の新しい恋人エレインの登場にあるのか、または博士が妻の恋人ジョナサンに遠慮したせいなのかは明確にされておらず、どちらも悪者になっていないところが脚本の上手いところ。エンドクレジットを注意して見ていたら、奥さんのジェーンの書いた手記がベースになっていたんだね。

主演のエディ・レッドメインが演じるホーキング博士は本物そっくりであり、ALSの進行によって体の自由が利かなくなっていく様子を見事に再現している。一方のフェリシティ・ジョーンズも、初々しい女子大学生から倦怠期の中年女性まで器用に演じ分けており、この二人の自然な演技が本作の一番の見所になっている。

ということで、エディ・レッドメインが本作でアカデミー賞主演男優賞を獲ったときには少々早過ぎるのではないかと思ったが、その後もファンタスティック・ビースト・シリーズなど多彩な活躍を見せてくれており、将来がとても楽しみ。やや伸び悩みが見られるフェリシティ・ジョーンズにも頑張ってもらいたいところです。

とことんUSJ(第2日目)

今日は、朝からUSJで遊び、夕方の新幹線で帰宅する予定。

JTBで予約した特典として一般の開園時刻(=予定では午前8時30分)よりも早く入園できるアーリー・パークインという制度があるのだが、本日指定された時刻は7時15分。おそらく一般の開園時刻も少し早まるのだろうが、まあ、せっかくの特典を利用しない手はないので、さっさと朝食を済ませて専用ゲートに向かう。その本日の特記事項は次のとおり。

1 最初に向かったのは前回と同じ「ザ・フライング・ダイナソー」。ジェットコースター嫌いの我が家でも好評なアトラクションだが、さすがに迫力は満点であり、前回よりもずっと怖かった。その後、「ミニオン・ハチャメチャ・アイス」~「ジョーズ」と回ってから初体験の「ユニバーサル・ワンダーランド」エリアを覗いてみると、まだ子供の姿はほとんど見当たらず、その間隙を縫って「スヌーピーのグレート・レース」を楽しませて頂いた。

2 そうこうしているうちに、エクスプレス・パス利用の「ミニオン・ハチャメチャ・ライド」の時刻が近づいてきたのでミニオン・パークへ移動。いきなり「デリシャス・ミー!フォトオボチュニティ」に捕まって家族写真を撮られたのは予定外の出費(?)だが、ライドの仕掛けは昔の「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」とほぼ同じ。しかし、映像技術の進歩には目覚ましいものがあり、間違いなくミニオンズの世界を満喫することが出来る。

3 その後、「ミニオン・クール・ファッションショー」でびしょ濡れ(という程では無いが)になってから、いよいよお待ちかねの「シング・オン・ツアー」を鑑賞。一番手のジョニーは歌もダンスもバッチリ決まっていたが、逆にグンターのダンスにキレが見られないのはちょっと面白い。全体的に新しい演出が見られなかったのが残念だった。

4 俺がホテルに忘れものを取りに行った後、「ロストワールド・レストラン」に入って大休憩。ちょうどお昼時ということでレストランはどこも長い行列が出来ていたが、妻に頑張ってもらって何とか席を確保することが出来た。やや疲れの見えていた娘もすっかり元気を取り戻してくれたみたい。

5 その後、最後の力を振り絞って「ジュラシック・パーク・ザ・ライド」~「マイ・フレンド・ダイナソー」~「ミニオン・ハチャメチャ・ワールド」~「ザ・フォービドゥン・ジャーニー」~「フライト・オブ・ザ・ヒッポグリフ」と回るとそろそろ帰りの時刻が近づいてきたので、最後は娘のリクエストにお応えして「マレヴォ・デ・アルゼンチーナ」を鑑賞。

6 実は、今日は昔娘に買ってもらった“屋敷しもべ妖精のドビー”のTシャツを着ていったのだが、これがパークのキャストさんたちからイジられること頻り。当然、好意的なコメントばかりなのでそう悪い気はしないが、第二候補だったミッキーマウスのアロハシャツを着ていっていたら一体どんなことになっていただろう。

ということで、帰りがけにホテルに預けておいた荷物を回収してから無事帰宅。USJも5回目にしてようやく余裕を持って回れるようになったという印象であり、今回、エクスプレス・パスに付いていた「アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド」と「ハリウッド・ドリーム・ザ・ライド」はともにパス。次回以降もエンタメ系重視の傾向はさらに強まる見込みです。