アルゼンチン出身の小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが1944年に発表した短編集。
実際には「八岐の園」と「工匠集」という二冊の短編集を併せたものであり、全部で17の作品が収められている。とても著名な本であり、(往年の?)SFファンとしてはもっと早い時期に読んでおくべきだったのだが、どちらかというと短編より長編指向の方が強いせいもあって手に取るのが遅くなってしまった。
さて、本書に収められた作品群は、「幻想的」であったり、「いっさいが非現実的」であったり、「架空の書物にかんするノート」であったりという具合に、それぞれユニークな趣向が凝らされており、一筋縄ではいきそうにないものばかり。しかし、筒井康隆をはじめとする多くの彼の後継者の作品を先に体験してしまったせいで、その衝撃度はやや弱まってしまったのかもしれず、う~ん、やっぱりもっと早くに読んでおくべきだったなあ。
そんな中で一番面白かったのは冒頭の「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」であり、数多あるアングロ・アメリカ百科事典(1917年版)のうちの一冊(?)にだけ「ウクバール」という聞き慣れない地名に関する項目が載っているというのが物語の発端。やがてトレーンという異世界に関する百科事典の一部が発見されるのだが、唯心論に支配されたその世界の文化は幻想的かつ奇想天外!
しかも、この小説には発表の7年後に付加されたという追記が存在し、そこで、トレーンという異世界が神を信じない一人の禁欲主義の百万長者によってでっち上げたものであることが明らかにされるのだが、この幻想世界の現実世界への侵入はその後も止まるところを知らず、トレーンの「調和的な(そして感動的なエピソードにあふれた)歴史の授業は、わたしの少年時代を支配した歴史を抹消して」しまう。
次に面白かったのは「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」であり、その内容は「べつの『ドン・キホーテ』を書くこと―これは容易である―を願わず、『ドン・キホーテ』そのものを書こうとした」一人の小説家、故ピエール・メナールに関する覚書。当然、「セルバンテスのテクストとメナールのテクストは文字どおり同一であるが、しかし後者のほうが、ほとんど無限にゆたかである」とされる。
例えば、文体ひとつとってみても、セルバンテスのそれが「その時代の普通のスペイン語を自在に操っている」だけなのに対し、「メナール―彼は結局、外国人である―の擬古的な文体にはある気取りが見られる」といった具合であり、何とも馬鹿馬鹿しい一方で、確かに「ドン・キホーテ」を書いたのが20世紀前半に活躍したフランス人だったとしたら、当然、その評価は現行のものとは異なってくるのだろう。
その他にも、「全能の神も何者かを求めており、…これが時の終わりまで…円環的に続く」という一文が印象的な「アル・ムターシムを求めて」や、結局、探偵が真の被害者になってしまう「死とコンパス」、そして作者自身が「たぶん最良の作品」と述べる「南部」等々、興味深い作品が満載なのだが、正直、“どこかで似たようなアイデアの作品を読んだことがあるなあ”という思いがしばしば脳裏をよぎった。
ということで、先日拝読させて頂いたマキアヴェリの「君主論」同様、嚆矢と言われる作品に共通する悲劇なんだろうが、本作を何の予備知識もなしに読むことができていたらどんなに衝撃的だったろう。もうこれ以上彼の他の短編を読むつもりはないが、その代りに彼が影響を受けたというG.K.チェスタートンの長編を何か読んでみようと思います。