白鯨

ハーマン・メルヴィルが1851年に発表したアメリカ文学を代表する傑作。

本当はメルヴィルの遺作である「ビリー・バッド」を読んでみたかったのだが、やはりものには順序というものがあるだろうということで、この未読の大作に挑戦。読みにくいことでも有名な作品であるが、2004年に発行された岩波文庫版は、ページ数こそ多いものの、親しみやすい言葉選びと丁寧な訳注とが幸いして何とか最後まで読み終えることが出来た。

さて、ストーリーはいまさら言うまでもなく、巨大な白鯨モービィ・ディックを仕留めるために航海を続けるエイハブ船長の執念が綴られているのだが、実際にはそんなストーリーとは直接関係のない“鯨学”に関する記述に相当数のページが割かれており、それが本書の“読みにくさ”の大きな原因の一つになっている。

その内容は、美術的なものから解剖学的なものまで非常に多岐にわたっており、最初はアラン・ムーアの「WATCHMEN」における「黒の舟」(=読書中、何故かこの作品のイメージが頭から離れなかった。)のようにサブリミナル効果を狙ったものかと思って読んでいたのだが、どうもそういう訳ではなく、単にメルヴィルの衒学趣味というか、学歴コンプレックスの反動(?)といった理由の方が当たっていそうな気がする。

それは、鯨学に関する蘊蓄のみならず、聖書やギリシャ神話等からの引用がやたらと目立つことにも現われており、親切な訳注なしに本書を読まなければならなかった人たちは(余程の物知りを除き)さぞかし大変だったろう。しかし、そんな荒波を乗り越え、全135章中133章において遂にモービィ・ディックがその姿を現したときの喜びは絶大であり、う〜ん、これもメルヴィルの計算だったのかなあ。

まあ、いずれにしてもこの著者の偏執狂的ともいえる衒学趣味はエイハブ船長の白鯨への異常な執着心にも通じており、この船長、登場したときから既に狂っている。一応、前回の航海で白鯨に片足を食いちぎられたことへの復讐という“理屈”は存在するのだが、それが何の得にもならないことは明白であり、一度は助かった自分の命を再び危険に曝すだけ。

しかし、そんなエイハブの狂気は、理性的なはずの一等航海士スターバックを含むすべてのピークオッド号の乗組員に感染してしまい、圧倒的な力を有するモービィ・ディックに対して無謀な闘いを挑むことになる。おそらく、とても歯が立たないことは最初の対戦で十分認識できたはずであるが、狂気に駆られた彼らを止められる者はおらず、三度目の対戦で(神的存在である語り手のイシュメールを除き)敢えなく全滅。

翻訳を担当した八木敏雄氏による解説には、モービィ・ディックのことを「白色人種の最深奥に宿る血の実体、われわれの最深奥にある血の本質である」と看破したD.H.ロレンスの言葉が紹介されているのだが、日頃、人種的差異に関する主張に対しては懐疑的であろうと心掛けている俺でさえ、その発言にはつい同意してしまいそうになる。

危険を顧みずに世界各地への宣教に務めたイエズス会の宣教師たち、地元民が見向きもしなかったエベレストへの登頂に命を懸けた英国の登山家たち、そして一生遊んで暮らせるだけの資産を有しながらもなお富を追求し続けた欧米の資本家たち…、このような人々の偏執狂的な努力(?)の蓄積が現在のグローバリズムの蔓延に繋がっているような気がするのだが、う〜ん、それを抑制するためには一体どうしたら良いのだろう。

ということで、「構造的には一見粗だらけ」な作品であり、ストーリー的にも辻褄の合わない箇所が散見されるのだが、作者自身の“血”の中に巣食っている狂気をこれほど無防備に曝け出した作品は貴重であり、精神分析の素材としてもとても魅力的。「ビリー・バッド」を読むのが一層楽しみになりました。