水滸伝(五)

四大奇書あるいは五大小説の一翼を担う」中国古典長編小説の最終巻。

長かった水滸伝もいよいよ完結を迎えるということで、本巻では招安実現後における108人の好漢たちの活躍の様子が描かれている。高俅をはじめとする「四悪人」の讒言によって官職に就くのを阻まれていた宋江らに助け船を出したのは数少ない忠臣の一人である宿元景であり、当時、北宋の国境地帯を脅かしていた遼国の征伐を宋江らに命じるというアイデアを天子(徽宗)に進言する。

つまり「宋江を破遼都先鋒に任ぜられ、その他の諸将には、手柄を立てた後、官職と爵位を与える」という訳であり、「てまえどもは、ちょうどこのように国家のために力を尽くし、功を立て業を立て、それで忠臣になりたいと思っていました」という宋江はこの提案を二つ返事で快諾。全軍を率いて遼国遠征の旅に出ることになる。

最後は、軍師である〈智多星〉呉用が「見てもわからなかった」という敵将兀顔光の弄する「太乙混天象の陣」に大苦戦を強いられるものの、再び宋江の夢の中に現れた九天玄女が授けてくれた秘策によって、見事に遼の大軍を撃破。好漢108人が一人も欠けることなく都への凱旋を果たす!

まあ、おそらくこの時点が梁山泊一味にとっての絶頂期であり、宋江が「功成り名遂げられ」るのを見届けた〈入雲竜〉公孫勝が、かねてからの約束どおり修行の道に戻るため一味から離脱すると、次の任務である江南の方臘討伐を前に、〈玉臂匠〉金大堅ら4人が宮廷等から請われて都に留め置かれてしまう。

さらに方臘軍との戦闘が始まると〈雲裏金剛〉宋万らを皮切りに戦死者が続出。最初の頃は比較的影の薄い好漢から亡くなっていくのだが、第94回で〈金鎗手〉徐寧が毒矢に当たって倒れると、〈浪裏白跳〉張順、〈急先鋒〉索超、〈一丈青〉扈三娘、〈九紋龍〉史進、そして〈霹靂火〉秦明といった馴染み深いキャラが次々に命を落としていく。

結局、江南に向かって旅立ったときには103人いた好漢たちも戦死や病死等によってその数を大きく減らしてしまい、ようやく方臘を生け捕りにして都に帰るときに「宋江が配下の正副の将を見ると、36人が生き残って帰るだけ」。その後も〈花和尚〉魯智深、〈行者〉武松、〈豹子頭〉林冲といった大物たちが任務完了の時を待っていたかのように姿を消してしまい、最終的に天子(徽宗)に拝謁できたのは27人に過ぎなかった。

正直、遼国遠征のときに比べ、方臘討伐時の戦力がそれほど大きく劣っていたとは思えないのだが、やはり「遼を打ち破るのは、たいへんな苦労だったのに…何の論功行賞もなく、わし自身の官職も低い。それで鬱々としているのだ」という宋江のモチベーションの低下が他の好漢たちの士気の低下につながった可能性は否定できず、「兄貴がわしの言うことを聞かないなら、明日もバカにされるだけだな」という〈黒旋風〉李逵の言葉にもう少し真剣に耳を傾けていたら、これほど大きな損失を被ることは無かったのかもしれない。

しかし、宋江宋王朝に対する忠義の心は最期まで変わることはなく、「今日、天子さまはおべっか使いの奸臣の言いなりになって、わしに毒酒を賜り、無実の罪をかぶる羽目になってしまった」と察知しながらも、自らの死後に謀反を起す可能性のある李逵を道連れにして素直に死の運命を受け入れてしまう。

正直、これだけの長編大活劇の結末が、宋江呉用、〈小李広〉花栄李逵の4つのお墓だけというのはちょっと信じられないくらいのバッドエンド。そういえば「アベンジャーズ/エンドゲーム(2019年)」のラストでもアイアンマンの葬儀が取り上げられていたが、彼が打倒サノスという最終目的を果たしてから死んだのに対し、こっちの四悪人は誰一人として倒されていない。

確かに遼や方臘という外患を取り除いた功績はあるのかもしれないが、その直接のメリットを受けたのはこの四悪人を含む宋王朝の関係者であり、史実によれば、その北宋にしても1120年の方臘の乱の後、間もなく金によって滅ぼされてしまっている。本書には方臘の圧政を嘆く住民たちの声も何度か取り上げられているが、「悪徳役人が威勢をふるって、厳しく圧迫」していたのは宋王朝でも同じであり、簡単にその優劣は付けられないだろう。

ちなみに、あの魯迅は「やくざ者の変遷」という文章の中で「彼らが反対するのは奸臣であって、天子ではなかった、彼らの略奪の対象は平民であって、将軍や大臣ではなかった。(略)天子に反対するのではないから、大軍がやってくると、すぐ帰順して、国家のために他の強盗―『天にかわって、道を行わ』ない強盗を討ちに行くのだ。つまりは奴隷である」と宋江を厳しく批判しているらしい。

しかし、この物語が長年中国の民衆に愛されてきたことを考えると、革命、すなわち宋王朝を超えることをイメージできなかったのは宋江ばかりではなく、多くの民衆も同様だったのだろう。本書に登場する九天玄女という女仙にしても所詮は宋王朝の守り神であり、善悪によってではなく、敵味方の判断によって宋江を応援するんだよね。

また、とても興味深いのは宋江の“無能さ”であり、方臘討伐の際、仲間の好漢が死ぬ度に派手な「慟哭」を繰り返す。「先鋒は軍勢を指揮されているのですから、思い煩われてはなりません」という呉用の度々の忠告も全く役に立たず、これでは部下の士気はだだ下がりの一途だろう。

これを“優しさ”と考えることも可能だが、彼のトレードマークである「金ばなれがよく義理を重んじ、人の貧苦を助け、人の窮地を救う」という長所と同様、その射程が極めて短いことは明らかであり、人徳というよりも、やはり縁故主義的といった方が当たっているような気がした。

ということで、考えて見れば、この現状を変えられない想像力の欠如(=「他に代りがいないんだから仕方ない」)と縁故主義(=モリカケ桜を見る会等々)というのは、我が国の現政権を支えている国民の心情にも共通するものであり、う~ん、魯迅に言わせれば「つまりは奴隷である」ということになってしまうのかもしれません。