夏の終りの三本槍岳

本当は一泊二日の予定で妻と涸沢へ遊びに行くつもりだったのだが、県内にもコロナの緊急事態宣言が出されてしまった故、予約していた涸沢ヒュッテを泣く泣くキャンセル。まあ、その代わりということで妻と歩くのは約一年ぶりとなる三本槍岳に行ってきた。

出発(8時23分)~峰の茶屋(9時9分)~朝日の肩(9時52分)~熊見曽根(10時7分)~1900m峰(10時14分)~清水平(10時29分)~北温泉分岐(10時41分)~三本槍岳(11時18分)~下山開始(11時45分)~北温泉分岐(12時16分)~清水平(12時31分)~1900m峰(12時50分)~熊見曽根(13時6分)~朝日の肩(13時15分)~峰の茶屋(14時3分)~駐車場(14時44分)

天気はまずまずだったが、山頂では北方面に雲がかかっており、360°の絶景とならなかったのがやや残念。それでも大きく膨らんだリンドウの蕾やススキ等々、初秋の訪れを感じながら歩くのはなかなか爽快であった。涸沢訪問は来年の宿題にしておきましょう。

『市民ケーン』、すべて真実

古典的名作「市民ケーン(1941年)」の製作過程を明らかにしたロバート・L.キャリンジャーの本。

勿論、本書を手にしたのは「Mank/マンク(2020年)」を見たことがきっかけであり、「市民ケーン」の脚本を書いたのは誰かという謎を解明するのが第一の目的。その謎を取り扱っているのが「第2章 誰が脚本を書いたのか?」であり、保存されていた初稿から第7稿までの脚本を読み比べることによって.マンキウィッツとウェルズのどちらの貢献がより大きかったかを明らかにしていく。

それによるとマンキウィッツによる第1稿は主人公のモデルになった「ハーストの生涯における様々な逸話に物語的な脚色を加えて並べただけのもの、という印象が拭いきれない」という代物だったそうであり、正直、著者は「必ずしも一流の脚本家ではなかった」、「集中力に欠ける脚本家」というようにマンキウィッツのことをあまり高く評価していない。

一方、ウェルズに関しては「この土台の上に立ち、映画文法の輝きを加えた…ハーストの薄っぺらなフィクション化に過ぎなかったケーンを、謎に満ち、人間性の深淵を秘めた巨人へと描きなおした」と最大級の賛辞を送っているのだが、その一方でそれが彼の「全作品中でもっとも力強い物語構造、もっとも完成された人間描写、そしてもっとも丁寧に書かれた台詞がある」のはマンキウィッツの貢献によるものとしており、結局、作品のクレジットのとおり“共同脚本”というのが最も実態をよく表しているようである。

そして、この「共同作業」というのが本書の最大のキーワードであり、続く第3章では美術監督のペリー・ファーガソン、第4章では撮影監督のグレッグ・トーランド、そして第5章ではポストプロダクション担当のリンウッド・ダン、ジェームズ・G.スチュアート、バーナード・ハーマンといった具合に、多くの技術者の協力が「市民ケーン」の成功に大きく寄与しているとしている。

何と言っても、「市民ケーン」はウェルズの初監督作品であり、いくら天才といえども多くの技術者の助力なしには映画を撮り終えることは不可能であり、本書を読んでいると映画作りという「巨大なおもちゃの機関車」を前にした生意気な子どもが周囲の大人たちに我儘を言ったり、窘めれられたりしながら一本の作品を作り上げていく様子が目の前に浮かんでくるようである。

一方、最終章で紹介されている「偉大なるアンバーソン家の人々(1942年)」の失敗(?)の原因は、とりあえずの成功によって自信過剰になったウェルズが「共同作業」の重要性を軽視したせいであり、「その後の彼は二度とハリウッドのメジャー・プロダクションを自分の望んだ形で任されることはなく、1942年の夏以降、その生涯をハリウッドでもっとも有名な不可触賤民として過ご」すことになってしまう。

ということで、撮影監督のグレッグ・トーランドの貢献についてはこれまでも様々な文章で目にしてきたが、「完成された映画全体の50パーセント以上の部分には、なんらかの特殊効果が用いられているという報告もある」というのは初耳であり、これまで驚異的なカメラワークの成果だと思って見ていたシーンも、実は特殊効果によるものだった可能性があるのかもしれません。

なぜ日本は没落するか

経済学者の森嶋通夫が1999年に発表した著作。

宇沢弘文と並ぶ数理経済学の泰斗の著作ということで、日本経済の根本的な問題点を鋭く指摘した内容なのだろうと思って手にしてみたのだが、意外にも本書で検討の俎上に載せられているのは我が国の政治の問題であり、その理由は「日本が没落するのは、今度の場合も明治維新の時と同様、政治からである」から、ということになるらしい。

その要因には様々なものが考えられるのだが、最も決定的なのは「政治的イノベーションの欠如」であり、日本列島改造論を唱えた田中角栄とその後を引き継いだ三木、福田、大平まではある程度その重要性を理解していたものの、「竹下以後日本の政治家は、新しいプログラムを案出してそれを実現して、全国民の利得をより大きくするという政治のあるべき姿…をすっかり忘れ去っ」てしまう。

それが許されたのは「そういうことをしなくても彼ら(=政・財・官)のうち二つが結託することによって両者が充分利益を上げることができるから」とのこと。誠に残念なことながら、「リクルート事件がそういう最初の動きであった」という指摘は慧眼と言わざるを得ず、それから20余年後の我が国の現状を見事に言い当てている。

また、かつての学生運動に「背を向けて、そのあと全てに無関心になった」という大多数の学生たちの成れの果てである「世代がデモクラシーを育むことはありえない。彼らは選挙で投票することはないであろうし、政府の経済運営に反対することもないであろう」という予測も正しかったようであり、社会の不正義に対して非難の声をあげようとしない「無気力な『土台』が続く限り、日本は没落を止めることができないであろう」と主張する。

このような没落を避けるための「ただ一つの救済策」として著者は「東北アジア共同体案」というアイデアを提唱しており、仮にそれが真剣に検討されていれば現在のような中国の覇権主義的傾向を少しでも修正できていたかもしれないのだが、残念ながら今となっては完全な時代遅れ。「日本経済は、戦後―戦前もある段階までそうだったが―を通じ戦争とともに栄えた経済である。没落しつつある場合にはなりふり構わず戦争に協力するであろう」という予言が外れることをただ祈るばかりである。

ちなみに、本書には現在の格差社会を予感させるような記述はほとんど見当たらないが、執筆時期が小泉内閣の成立前であることを考えれば、まあ、やむを得ないところだろう。一方、歴史修正主義の危険性に対してはいち早く警鐘を鳴らしており、本書の最終章の結びでは「『新しい歴史教科書をつくる会』は間違っている」と、1996年に結成されたばかりのその団体を明確に否定している。

ということで、教育の現場にも近かった著者は、当然、「教育の荒廃」にも言及しているのだが、そこで主張されている大学進学率の抑制、生徒の選別等については、(一部の?)大学の専門学校化によってある程度実現していると言えるのかもしれない。しかし、それが真に能力の高い人間の選別になっているかは大いに疑問であり、世襲社会を再生産し続けるための方便に成り下がってしまう危険性さえ秘めているような気がします。

ミッドサマー

2019年
監督 アリ・アスター 出演 フローレンス・ピュー、ジャック・レイナー
(あらすじ)
不幸な“事故”で家族を失ったダニー(フローレンス・ピュー)は、同じ米国の大学で文化人類学を専攻している恋人のクリスチャン(ジャック・レイナー)からスウェーデン旅行に誘われる。その旅の目的は、スウェーデンからの留学生であるペレの故郷で90年に一度行われる“夏至祭”の見学であり、その誘いに応じることにした彼女はクリスチャンの友人たちと一緒に幻想的な雰囲気に包まれたホルガ村へとやってくる…


前作の「ヘレディタリー/継承(2018年)」がちょっと面白かった(?)アリ・アスター監督の新作ホラー映画。

大学で心理学を専攻しているダニーには同じ精神的疾患に苦しんでいる妹がいたのだが、彼女の企図した排ガス自殺に両親が巻き込まれてしまい、突然、一人ぼっちになってしまう。恋人のクリスチャンはそんな心の問題を抱えたダニーのことを負担に感じるようになっており、二人の恋愛関係は破局寸前というのが本作の前提。

一方、彼女らが訪れたホルガ村では村人全員が子ども~若者~大人~老人というサイクルに従った規則正しい生活を送っているのだが、その根底にあるのは他の村民の喜びや悲しみを自分自身の感情として体験するという“共感”システム。まあ、一種の拡大家族みたいなものだと考えれば良いのだろう。

本作は、そんな精神の孤独に苦しんでいるダニーがホルガ村という拡大家族の一員に迎えられるまでの経緯を丹念に描いているのだが、当然、そこには不自然な(?)家族関係を維持・強制するための厳格なルールが存在する訳であり、そのローカルルールの“特殊さ”が本作の恐怖の源泉になっている。

一時代前であれば、そんなストーリーの舞台になるのは熱帯のジャングルに囲まれた肌の黒い人々の集落と相場が決まっていたのだろうが、それを北欧の明るく美しい自然の中に持ち込んでみたのが本作のミソ。一見すると知性も理性も十分備えていると思われる人々が、観客の期待を裏切るようにして繰り広げる残酷な奇行の数々は、従来とは一味違う不気味な雰囲気を味合わせてくれる。

ということで、そんなアリ・アスター監督の意気込みは理解できるものの、「ヘレディタリー/継承」に比べると直接的でグロテスクなホラー表現に頼っているシーンの多いところが残念であり、正直、あまり高い点数はあげられない。本作公開後、上映時間を20数分長くした「ディレクターズカット版」も公開されたようだが、ちょっと鑑賞意欲は湧いてこないような気がします。

太郎山には行き着けず

今日は、妻と一緒に奥日光の山王帽子山~太郎山を歩いてきた。

本当は夫婦淵から鬼怒沼までへの日帰りピストンを強行(?)する予定だったのだが、妻の「自信がない」という一言で急遽計画変更。咄嗟に思い付いたのが、先日、切込・刈込湖を歩いたときに話題になった山王帽子山であり、うまく行けば太郎山まで行けるかもじれないと思いながら、午前6時過ぎに山王峠の少し手前にある駐車スペースに着く。

身支度を整えて6時14分に歩き出し、舗装された林道を歩いて登山口(6時19分)に着く。予想より笹が密生していたのでレインスーツの下だけ身に付けてから登山口に入るが、ヤブっぽかったのは最初だけであり、妻は“暑い”と言って途中で脱いでしまう。一方、山頂までの急登についてはあらかじめ説明しておいたので苦情は出なかったが、スロースターター気味の彼女にとっていきなりの上りの連続はちょっと負担だったようであり、途中、何度か立ち止まって呼吸を整えながら7時32分に山王帽子山(2077m)に到着する。

11年前の記憶どおり山頂からの見晴らしはいま一つであるが、上空は晴れており、360度の絶景を期待して次の小太郎山へと歩き出す。長い斜面を下って鞍部(8時3分)に着くと、当然、そこからは小太郎山までの登り返しが待っているのだが、途中で白いガスに追い付かれてしまい、う~ん、これでは山頂からの見晴らしは微妙なところ。

9時32分にようやく小太郎山(2328m)にたどり着くが、やはり周囲は真っ白であり、目の前にそびえているはずの太郎山の姿さえ見ることが出来ない。まあ、そんな具合で妻のテンションは一向に上向かないようであり、仕方がないので今回はここから引き返すことに決定。じっとしていると汗が冷えて寒いというので9時50分に下山に取り掛かる。

復路は(基本的に)往路を引き返すだけであり、鞍部(11時00分)を通過して11時41分に山王帽子山まで戻ってくる。ここへ来てようやく妻の顔に余裕の笑顔が戻り、そこでしばらく休憩してから11時59分に再出発。登山口まで下りてきたのは12時53分のことであり、再び舗装道路を歩いて駐車スペース(12時58分)に到着。本日の総歩行距離は7.2kmだった。

ということで、どうやら今回は最初から妻の気分が乗らなかったようであり、もう少し楽なコースを選択すべきだったのかもしれない。幸い、妻にピークハントの興味は希薄であり、太郎山の山頂を踏めなかったことを悔やむ様子は全く見られないのだが、う~ん、これって単純に喜んで良いことなのでしょうか。
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時の面影

2021年
監督 サイモン・ストーン 出演 キャリー・マリガンレイフ・ファインズ
(あらすじ)
第2次世界大戦前夜の英国。幼い頃から考古学に興味のあった未亡人のプリティ(キャリー・マリガン)は、自分の所有地内にある古い塚の発掘を素人考古学者のバジル・ブラウン(レイフ・ファインズ)に依頼する。最初の頃は地元の博物館も興味を示さなかったが、独学とはいえ長い経験と豊富な知識の持ち主であるブラウンは、塚の底から大きな船の遺跡を掘り出すことに成功し、それを知った大英博物館が動き出す…


最も有名な英国の考古遺跡の一つである“サットン・フーの船葬墓”の発掘の経緯を描いたNetflixf映画。

予備知識は全く無かったのだが、主演のお二人に加え、リリー・ジェームズまで共演で花を添えているとあっては無視することは不可能。そんな訳で早速拝見させて頂いたのだが、結果は大成功であり、英国映画らしい美しい映像としっとりとした情感に溢れたなかなかの佳品であった。

さて、ブラウンの的確な推理と判断によって塚の発掘はほぼ順調に進むのだが、その成果を聞きつけた大英博物館が突然介入してくるところから状況は一変。政府の命令によって発掘の主体は本物の考古学者であるフィリップスの元へと移ってしまい、一時は離脱を決意したブラウンは周囲の説得によってフィリップスの下で働くことになる。

結局、ブラウンの推理どおり、その遺跡はバイキングよりも古いアングロ・サクソン時代のものであることが判明し、世紀の大発見ということになるのだが、プリティが出土品を大英博物館に寄付する際の条件に“ブラウンの功績を明示すること”という一文を付け加えたことによって問題は無事解決。その後も色々あったらしいが、現在は大英博物館に彼の名前がきちんと表示されているとのことである。

一方、プリティは重い心臓病を患っており、まだ幼い一人息子のロバートを残してこの世を去らなければならないことを恐れているのだが、そんな彼女の死の不安を和らげてくれたのが“洞窟の壁に残された手の跡のように我々はずっと続いている”というブラウンの言葉。夜間、プリティとロバートが船の遺跡に寝そべって、星を眺めながら宇宙の旅を夢想するシーンはとても美しい名シーンだと思う。

ということで、リリー・ジェームズが扮しているのは夫と一緒にフィリップスの下で働く若き考古学者ペギーなのだが、正直、彼女とプリティの従弟との不倫話は本作のテーマに相応しいとは全く思えない。ちょっと残念ではあるが、同じくNetflixで見られる「ガーンジー島の読書会の秘密(2018年)」では彼女が主演を努めているようであり、そちらでの活躍に期待したいと思います。

「線」の思考

“鉄道と宗教と天皇と”という副題が付けられた原武史の本。

鉄道好きとしても知られる著者が2018年6月号から20年6月号まで8回にわたって「小説新潮」に連載した文章がベースになっており、タイトルにある「線」というのは主に鉄道の路線のことを意味している。簡単に言ってしまえば、オジサンの“乗り鉄”がその旅の様子を記した紀行文のようなものであり、話題が“宗教と天皇”に特化しているところが著者らしいところかな。

まあ、そんな訳で内容はそれほど重いものではなく、サラッと読めてしまえるところが大きな特徴。一応、8つの文章ごとに一定のテーマが設定されてはいるものの、最初の「小田急江ノ島線カトリック」では“聖園女学院の創立者とも言うべき聖園テレジアの名前が、近時、学校の広報誌等から抹消されてしまったのは何故か”という謎が不明のまま放置されており、全体的にあまり突っ込んだ検討はなされていない。

また、最後の「聖母=ショウモから聖母=セイボへ」では、昭和天皇が1949年に「長崎の原爆で親を失った孤児たちの養護施設」である聖母の騎士園を訪問した際、「聖母マリアと一体化したかのように…『母』として園児たちに愛情を注ぐことに熱中した」のではないかという著者の推測が述べられているが、説得力は希薄であり、思い付き以上のものとは思えなかった。

ということで、本書を読んでいる際、NHKで放映されている「ブラタモリ」のことを何度か思い浮かべてしまったのだが、正直、この程度の内容であれば本で読むよりも映像で楽しんだほうがずっと快適そう。「線」を鉄路に限らなければネタは無尽蔵にあると思うのだが、TVの皇室タブーに抵触するする恐れがあるところがちょっと障害になるかもしれません。