経済学者の森嶋通夫が1999年に発表した著作。
宇沢弘文と並ぶ数理経済学の泰斗の著作ということで、日本経済の根本的な問題点を鋭く指摘した内容なのだろうと思って手にしてみたのだが、意外にも本書で検討の俎上に載せられているのは我が国の政治の問題であり、その理由は「日本が没落するのは、今度の場合も明治維新の時と同様、政治からである」から、ということになるらしい。
その要因には様々なものが考えられるのだが、最も決定的なのは「政治的イノベーションの欠如」であり、日本列島改造論を唱えた田中角栄とその後を引き継いだ三木、福田、大平まではある程度その重要性を理解していたものの、「竹下以後日本の政治家は、新しいプログラムを案出してそれを実現して、全国民の利得をより大きくするという政治のあるべき姿…をすっかり忘れ去っ」てしまう。
それが許されたのは「そういうことをしなくても彼ら(=政・財・官)のうち二つが結託することによって両者が充分利益を上げることができるから」とのこと。誠に残念なことながら、「リクルート事件がそういう最初の動きであった」という指摘は慧眼と言わざるを得ず、それから20余年後の我が国の現状を見事に言い当てている。
また、かつての学生運動に「背を向けて、そのあと全てに無関心になった」という大多数の学生たちの成れの果てである「世代がデモクラシーを育むことはありえない。彼らは選挙で投票することはないであろうし、政府の経済運営に反対することもないであろう」という予測も正しかったようであり、社会の不正義に対して非難の声をあげようとしない「無気力な『土台』が続く限り、日本は没落を止めることができないであろう」と主張する。
このような没落を避けるための「ただ一つの救済策」として著者は「東北アジア共同体案」というアイデアを提唱しており、仮にそれが真剣に検討されていれば現在のような中国の覇権主義的傾向を少しでも修正できていたかもしれないのだが、残念ながら今となっては完全な時代遅れ。「日本経済は、戦後―戦前もある段階までそうだったが―を通じ戦争とともに栄えた経済である。没落しつつある場合にはなりふり構わず戦争に協力するであろう」という予言が外れることをただ祈るばかりである。
ちなみに、本書には現在の格差社会を予感させるような記述はほとんど見当たらないが、執筆時期が小泉内閣の成立前であることを考えれば、まあ、やむを得ないところだろう。一方、歴史修正主義の危険性に対してはいち早く警鐘を鳴らしており、本書の最終章の結びでは「『新しい歴史教科書をつくる会』は間違っている」と、1996年に結成されたばかりのその団体を明確に否定している。
ということで、教育の現場にも近かった著者は、当然、「教育の荒廃」にも言及しているのだが、そこで主張されている大学進学率の抑制、生徒の選別等については、(一部の?)大学の専門学校化によってある程度実現していると言えるのかもしれない。しかし、それが真に能力の高い人間の選別になっているかは大いに疑問であり、世襲社会を再生産し続けるための方便に成り下がってしまう危険性さえ秘めているような気がします。