動物農場

ジョージ・オーウェルが「1984年」の4年前に発表したもう一冊のディストピア小説

動物が主役の寓話として創作されたストーリーは比較的単純であり、人間の農場主に搾取されていることに気づいた動物たちが革命を起こして人間を追い出すことに成功するが、指導者であるブタの独裁を許したことから、再び奴隷のような苦しい生活を強いられるようになってしまう、というもの。

山形浩生が「訳者あとがき」で指摘しているとおり、今となっては「実にストレートでまっとうなソ連スターリニズム批判」として読めるのだが、本書が出版された1945年にはスターリン(〜1953年)はまだ存命だった訳であり、フルシチョフによるスターリン批判が行われたのはそれから10年以上経ってから。

要するにスターリニズムに対する評価がまだ定まってない時点で執筆された訳であり、当時の出版社が本書を引き受けるのを躊躇したというのもよく分かる。その後、「冷戦の深化にともなってアメリカの反共政策のツールとして」受容されてしまったのはオーウェルにとっても心外だったろうが、“右でも左でも全体主義は認めない”という思想の持ち主だったからこそ、いち早くスターリニズム批判をすることが出来たのだろう。

正直、「ロシア革命の戯画化」にこだわりすぎたため、「1984年」に比べるとやや普遍性に乏しいような気もするが、山形の言うとおり本書を「ある種の権力の在り方すべてに対する批判をこめた作品」として読むことも十分可能であり、単純明快な「七戒」に無用の留保を付け加えることによって空文化させてしまうのは、現政権が主張している“9条第3項”と全く同じ手口。

また、「本書の転回点がブタによるリンゴとミルクの独占なのだ」とすると、現在の森友・加計問題に見られる国家の私物化をうやむやにしてしまうことが、我が国の民主主義にとって致命傷になってしまう可能性大であり、やはり何としても現政権に対してその責任を取らせるよう追及していく必要があるのだろう。

ということで、本書の伝えてくれる究極のメッセージは、右でも左でも「権力は腐敗する」という単純な真実であり、“だから革命なんか起こさなければ良かったんだ”ということでは決してない。左右どちらを支持するかは人それぞれだが、ときの権力者を盲信し、その支持を馬鹿の一つ覚えのように喚き立てるヒツジにだけはなりたくないものです。