加藤隆という聖書学者の書いた新約聖書の成立ちに関する本。
「新約聖書はキリスト教にとって、この上もなく重要な文書集である。しかし新約聖書が現在のものに見合うような形でほぼ成立したのは紀元四世紀のこと」であり、つまりそれまでの約300年間、「キリスト教徒には、新約聖書は存在しなかった」というちょっと挑発的なプロローグから始まるのだが、それに続く本文の記述もとても歴史的=客観的であり、それによって新約聖書の権威が相対化されることも厭わないという著者の態度はなかなか頼もしい。
さて、キリスト教の歴史において“有効だと判断すれば、たとえそれが異端の人々の発案によるものであっても躊躇せず採用する”という貪欲さ(?)は良く見られるところだが、新約聖書の成立もまさにそのパターンであり、最初の文書である「マルコ福音書」(40年代後半から60年代はじめの頃)を書いたのは主流派のエルサレム教会を批判したヘレニストの皆さん。イエスに関する情報を独占するため、主流派はその文書化を嫌ったらしい。
その後、ユダヤ戦争の敗北(70年)によってユダヤ人社会から締め出されてしまったキリスト教徒たちはマタイ、ルカ福音書をはじめ多くの文書を残すようになるが、そういった中から特定の文書を選び出し、旧約聖書に倣って新約聖書の原型みたいな文書集(2世紀中頃)を作ったのも異端といわれたマルキオン派。
結局、アタナシオスの「第三十九復活祭書簡」(367年)において4つの福音書を含む27の文書が正典として確定し、ここに晴れて新約聖書が成立する訳であるが、その文書の客観的な選択基準は不明確(=教会主流の絶対的権威によって選択されたからとしか言いようがない。)であり、文書の掲載順等の問題を含め、「新約聖書の権威は曖昧である」というのが著者の結論。
こういった議論の他にも、イエスが布教活動を始めてから新約聖書が成立するまでの経過が要領よくまとめられており、初期キリスト教史として読んでもとても勉強になる。一番興味深かったのはパウロによる「信仰義認」の考え方であり、信仰さえあればユダヤ教的な律法遵守義務は不要という彼の主張は親鸞の「他力本願」みたいだなあ。
もっともパウロの場合、「悪人正機」までその考えを徹底させることはせずに、自ら率いる共同体内の秩序を維持するために「(教会という)制度的な枠組みの統制力に期待」したというのが、現在まで続くカトリック教会の権威主義の原点。スピノザが信仰に必要なのは理性ではなく、「服従と道徳心」だけだと述べていたのもこのことなんだろう。
ということで、新約聖書に収められた各文書の紹介はほぼ省略されており、ちょっと期待していたQ資料の存否等にも触れられていないのだが、まあ、一般向けに書かれたという本書のボリュームからすれば仕方ないところ。著者には「旧約聖書の誕生」といった著作もあるようなので、いずれ読んでみようと思います。