一九八四年

ジョージ・オーウェルが1949年に発表したディストピア小説の傑作。

世界各地で反自由主義的な政権が誕生する度に話題になる作品であり、現在は米国のトランプ政権のおかげで何度目かのブーム到来。あまりにも有名な作品の故、読まずとも大まかなストーリーくらいは頭に入っているが、まあ、一度くらいはきちんと読んでおくべきだろう。

さて、ストーリーは、発表時から30余年が経過した近未来のお話しであり、舞台となるロンドンは大英帝国が米国に併合されることによって成立した“オセアニア”の一部になっている。そしてそのオセアニアを支配しているのが“革命”によって誕生した“党”であり、その独裁体制に疑問を抱いた主人公のウィンストン・スミスは反体制組織であるブラザー同盟への参加を試みる。

まあ、発表当時の状況を考慮すれば、この党というのは間違いなくソ連スターリン体制のパロディであり、トマス・ピンチョンの解説の中でも触れられているとおり本書は「何世代にもわたる反共イデオローグの支え、慰み」となっていた訳であるが、真のアナーキストであるジョージ・オーウェルにとってみれば右でも左でも全体主義は同じこと。

例えば、「故意に嘘を吐きながら、しかしその嘘を心から信じていること、都合が悪くなった事実は全て忘れること、その後で、それが再び必要となった場合には、必要な間だけ、忘却の中から呼び戻すこと」と説明される“二重思考”は、先日の森友・加計問題における官僚答弁でも見事に使用されていた。

また、“個人のアイデンティティを脱却し、党と自分とを一体化することによって一種の全能感を得る”という“党中枢”の生き方は、党を日本に置き換えてみれば、我が国の中にも相当数の信奉者が存在するはずであり、そういう方々は人権や安全保障の問題に関しても個人の目線からではなく、統治者の目線から判断しようとする傾向が強いように思われる。

“過去のコントロール”についても、あからさまな歴史修正主義のみならず、TVや映画の中では煤煙も、泥濘も、道端のゴミも、ハエも、立ち小便も、水っ洟も、煙草さえも出てこない明るく清潔な昭和の時代が繰り返し“再現”されており、う〜ん、1984年的世界を実現させるのはオーウェルが考えていたよりずっと簡単なことなのかもしれないなあ。

ということで、1938年に発表された「カタロニア讃歌」から感じ取れた“不思議な爽快感”みたいなものは本書には微塵も残されておらず、ラストの絶望感は圧倒的。ピンチョンは附録として最後に付けられた「ニュースピークの諸原理」の存在に一縷の希望を見いだしているのだが、まあ、出来れば1984年的世界が完成してしまう前に何とか対策を講じたいところです。