ダンケルク

今日は、娘と一緒にクリストファー・ノーラン監督の新作「ダンケルク」を一週間遅れで見てきた。

戦争映画のイメージが災いしてか、妻&娘の反応はいまひとつ盛上りに欠けるように思われるのだが、娘の外出の運転手を務めさせて頂くことの見返り(?)ということで交渉成立。まさか、怖くて見に行けなかった「ハクソー・リッジ(2016年)」のようなことは無いだろうと思いながら、小山市での用事を済ませた帰りに映画館へ向う。

さて、ストーリーは、第二次世界大戦中、ドイツ軍の猛攻によってダンケルクの海岸に追い詰められてしまった英仏軍40万人の脱出劇を描いているのだが、とても有名な出来事ということで状況説明はほとんど無し。観客は、救出を待つ大勢の兵士で埋め尽くされた砂浜にいきなり放り出されてしまう。

ジョー・ライトの「つぐない(2007年)」ではこの絶望的な状況を“悲壮美”として静的に描いているのだが、ノーラン監督の採用した手法はそれとは真逆。何とか生き延びようとして悪戦苦闘する年若の兵士たちの他に、彼らの救出に向う英国空軍のパイロットや民間の小型船の乗組員の視点を加えた3つのストーリーを絡み合わせることによって、同じ状況を極めて動的に描いている。

実は、映画が始まって間もなく、一週間、一日、一時間という謎のメッセージが表示されるのだが、見ているうちにそれらが浜辺で救出を待つ人々、小型船の乗組員そしてパイロットのそれぞれの時間経過を表しているらしいことに気付いて疑問氷解。こんな脚本ってこれまでにも何かあったっけ?

まあ、一応の主人公らしきトミー君は我先に逃げ出すこと以外ほとんど何もやっていないのだが、それはあのような状況に追い込まれた人間の正常な行動であり、非難されるような謂われは全くない。一方、ドーソン氏の“我々の始めた戦争で多くの若者を犠牲にしてしまった”というセリフは、(ルビッチの「私の殺した男(1932年)」にも出て来たが)世界中のオヤジたちが深く噛みしめるべき言葉だと思う。

ということで、見る前から結果は分かっていたはずの作品なのだが、時間軸を自由自在に操るノーラン監督の術中にハマってしまったために見ている間は緊張感の連続。ドリンクホルダーのコーラにほとんど口を付けていなかったことに気付いたのは、トミー君が無事英国への帰還を果たした後のことでした。