アフガン零年

2003年作品
監督 セディク・バルマク 出演 マリナ・ゴルバハーリ、モハマド・アリフ・ヘラーティ
(あらすじ)
タリバン政権下にあったアフガニスタンの首都カブール。相次ぐ内戦により父や叔父を失った少女(マリナ・ゴルバハーリ)は、年老いた祖母と看護師の母と女三人で暮らしていたが、病院の閉鎖により母親も職を失ってしまう。女性の外出や労働が厳しく規制されている中、少女は生活の糧を得るために髪を短く切り、少年の格好をして亡父の知り合いだったミルク屋の店員として働き出す….


タリバン政権崩壊後、アフガニスタン国内で初めて製作されたという作品。

女であることがバレてしまえばタリバンに殺されてしまう可能性もあるということで、少女のミルク屋への“通勤”は緊張と不安の連続。実際のストリート・チルドレンの中から選ばれたというマリナ・ゴルバハーリの演技を超えた演技の印象は強烈であり、セリフらしいセリフはほとんど無いものの、その引き攣ったような表情は彼女の感じている恐怖心を雄弁に物語っている。

しかも、数日後にはタリバンが開設した宗教学校に男子として強制的に入学させられてしまい、彼女の運命は風前の灯火。ただ一人、事情を察したお香屋の少年だけが彼女の味方になってくれるのだが、結局、最悪のタイミングで“女”であることが学校側にバレてしまって万事休す。その後、何とか死刑だけは免れるものの、救いの無いままに映画は幕を閉じてしまう。

まあ、状況が状況なだけに、人的にも物的にも資源が逼迫した状態で製作された作品であり、一見すると、その稚拙さや粗雑さがたまたまドキュメンタリータッチな迫力とリアリティを生んでいるように思われるのだが、実際はこのセディク・バルマクという監督さん、なかなかの才人であり、演出のみならず、彼自身による脚本もなかなか上手く出来ている。

例えば、本作中で唯一のユーモラスな場面として、宗教学校における“夢精をしてしまった場合の対処方法”に関する授業風景が描かれており、緊迫感のあるシーンが続いた後、そこで観客がホッと一息付けるという仕組みになっているのだが、最後まで見ていると、そのシーンは少女の残酷な末路を暗示するための伏線にもなっていたことが判って吃驚仰天。ゴールデン・グローブでの外国語映画賞受賞は決して伊達ではなかった。

ということで、邦題の「アフガン零年」というのはロベルト・ロッセリーニの「ドイツ零年(1948年)」にちなんで付けられたのだろうが、同じ敗戦国である我が国の“零年”というのは一体いつのことだったのだろう。先日の戦後70年談話なるものを聞いていると、明治維新のことを零年と考えているような気がしてなりませんでした。