土の記

高村薫が2016年に発表した長編小説。野間文芸賞大佛次郎賞そして毎日芸術賞を受賞している。

野間文芸賞というのは純文学作品を対象にしており、その受賞は著者の純文学転向にお墨付きを与えたことになるらしいのだが、正直、とっつきにくいのは最初の十数ページくらいであり、そこから先は次から次へとページをめくる手が止まらない。衝撃的なラストも見事に決まっており、やっぱり高村薫はとても面白い。

さて、テーマになっているのは奈良県の山村に暮らす72歳の男やもめの日常であり、ちょっと変っているのは彼が東京生まれの婿養子であり、半年前に亡くなったその妻が地域では評判の美人だったことくらい。彼女が交通事故で植物状態になってしまった後は、見よう見まねで稲作に励んでいるのだが、定年まで電気メーカーで働いていた理系人間の故、「長さ一ミリ弱の二次枝梗原基」といった具合に表現が意味もなく学術的なのがとても可笑しい。

そんな具合に、学生の頃に読んでいたら間違いなく途中で放り出していたと思われるくらい平凡なエピソードばかり出てくるのだが、それにもかかわらず最後まで読み通さずにいられなくなるのには、(俺が年を取ったからだけではなく)おそらく二つの秘密があり、その一つは16年前に起こった亡き妻の交通事故にまつわるミステリイ。

実は、その当時、妻には浮気相手がいたらしく、事故現場に彼女の乗っていた原付のブレーキ痕が残されていない等、不審な点も少なくない。そんな16年前の出来事が主人公の回想の中で次第に明らかにされていくのだが、いかんせん探偵役のこの男がボケの出はじまった老人ということで事件の解明は遅々として進まず、時折ポロッと出てくる新たな手掛かりに読者は一喜一憂。

もう一つの秘密は、ファンにはお馴染みの高村節であり、情報量のぎっしり詰まったハードボイルドな語り口は今だ健在。山村の日常生活が描かれているということで「夜明け前」を思い出しながら読んでいたのだが、藤村のゆったりとした表現がジョージ・スティーヴンスだとすれば、高村のスタイルはポール・グリーングラスであり、そのアグレッシブな文体は読者の心を一瞬たりとも手放さない。

ということで、恐竜や縄文土器と同様、最後は全て土の下に埋まってしまうのだが、ロケットに乗って宇宙にでも脱出しない限り、土に還って終るのは当然のこと。幸い、著者の方は現在も精力的に執筆活動に取り組まれているようであり、俺が土に還るまでにもう何冊か楽しませてもらえそうです。