社会契約論/ジュネーヴ草稿

ジャン=ジャック・ルソーが1762年に発表した政治哲学の古典。その原型である「ジュネーヴ草稿」も併録されている。

「人間不平等起源論」に引き続き光文社古典新訳文庫で読んでみたのだが、ボリューム的には社会契約論が約300ページでジュネーヴ草稿の方は150ページくらい。それに翻訳を担当した中山元による100ページに及ぶ丁寧な解説が付いている。

さて、その解説によると本書の目的は「この書物の前提となる『人間不平等起源論』の「献辞」で語られた理想の国家が実現可能であることを示すこと」であり、第一篇では国家という政治体がどのようにして成立したのかを明らかにしようとしているのだが、その前提になるのは「自由という権利は、自然が直接に与えた贈物であり、いかなる人間からもこれを奪うことはできない」という強い気持ち。

例によって議論は単純明快であり、まず、「国家においては支配者は人民を愛することはない」という理由から、支配者を父親の似像として捉えようとする国家観をあっさり否定する。また、「力に屈するのはやむをえないから」に過ぎないとして、「力は権利を作りださ」ず、我々は「正当な権力以外のものには服従する義務はない」と主張する。

したがって、「人々のうちに正当な権威が成立しうるとすれば、それは合意によるものだけ」ということになるのだが、前記のようなルソーの信念からすればグロティウスの主張する奴隷契約みたいなものを認める訳にはいかず、結局、「共通の利益のほかには、人々に社会という団体のうちで自主的に結合させてきたものはないのではないだろうか」という結論に至る。

そこから生まれたのが社会契約の概念であり、我々は自然状態において享受していた自由を一度放棄することよって、もっと強力な「道徳的自由」を手に入れることが出来る。すなわち、「みずから定めた法に服従するのが自由」なのであり、「人間は体力や才能では不平等でありうるが、取決めと権利によってすべて平等になるのである」。

さて、社会契約を結ぶことにより、「構成員は集合的には人民(プープル)と呼ばれるが、主権に参加する者としては市民(シトワヤン)と呼ばれ、国家の法律にしたがう者としては国民(シュジェ)と呼ばれる」ようになる。この「個人に対しては主権者の一員として約束し、主権者に対しては国家の成員として約束する」という「二重の関係」についてさらに検討を進めていくのが第二篇。

そこで重要になってくる概念が一般意志であり、それは主権者が「(市民の)集合的な存在にほかならない」ために、「人民が十分な情報をもって議論を尽くし…わずかな意見の違いが多く集」められる中から生まれてくる。「かならずしも全員一致である必要はない」が、「すべての投票が数えられるべき」であり、それは少数意見が尊重されるべきことを意味しているのだろう。

この一般意志の具体的表現が法であり、「立法によって、政治体に活動と意志を与えること」が出来るようになる。ここで注意すべきなのは「一般意志は個別な対象にはかかわらない」ということであり、したがって、「[法で]定められる対象も、[法を]制定する意志も、どちらも一般的なもの」にならざるを得ない。

それに対し、「個別的な行為だけにかかわるもの」として主権者から執行権の委任を受けたものが政府であり、第三篇ではそれに関する詳細な検討が行われる。政府の形態は、民主政、貴族政、君主政に区分されるが、いずれも「主権者の召使い[執行人]にすぎない」のだから、「一般意志の指導」に従うべきなのは当たり前。

しかし、「個別意志はたえず一般意志に抵抗して働く」のと同様、「政府はつねに主権に抗して働こうと務める」ものであり、「いずれは統治者が主権者を抑圧して、社会契約を破棄するような事態が訪れる」のは避けがたい事実。これを防ぐために有効なのは「人民の集会!」であるが、「悪しき政府のもとでは、市民たちは誰も、集会に参加するために一歩でも動こうという気にはならないものだ」というルソーの指摘は、残念ながら本当のことだろう。

最後の第四篇では、彼の宗教観が示された第8章が興味深く、ローマ・カトリック教会の存在を「人間に二つの法律、二人の首長、二つの祖国を与えるものであり、人々を矛盾した義務にしたがわせる」として、痛烈に批判する。一方、素朴な「福音書キリスト教」に対しても容赦はなく、天国のことしか考えていない人間には権力の簒奪者や外国の脅威から祖国を守ることは出来ないとして、「真のキリスト教徒は、奴隷となるように作られている」と結論づける。

まあ、「人間不平等起源論」同様、今から250年前に書かれた内容であり、我が国の現状にあてはめてみるにはひと工夫もふた工夫も必要になるが、「平等が目標となるのは、それがなければ自由が存続できないからである」との指摘は明快であり、「平等が破壊されるのは、自然な成り行き…だからこそ、立法の力で、平等を維持するように努めるべき」なんだろうと俺も思う。

一方、一般意志(=これは正義と言い換えても良い。)を得るためには「誰もが自己の利益を純粋に追求しながら、他者と協議をつづけ」なければならない訳だが、それではいつまで経っても結論に達しないおそれがあり、そんな反省から生まれたのがジョン・ロールズが「正義論」(=いまだ読了できていない。)の中で採用した「原初状態」のアイデアなのかもしれないなあ。

ということで、本書で一番衝撃的だったのはルソーが国家の滅亡を不可避なものとして比較的素直に受けいれている(=「スパルタやローマですら滅びたのだ」)ところ。「暴政のために卑屈になった国民が、わずかでも自由を主張した例は少ないし、かりに自由を望んだとしても、もはや自由を支えることはできない」のだとすれば、その前に何らかの手を打つ必要があるのだが、現政権の「ご飯論法」が一般意志を志向していないのは明らかであり、我が国において「ブタによるリンゴとミルクの独占」はまだ起きていないと言い切ることは出来るのでしょうか。