人間不平等起源論

ジャン=ジャック・ルソーが1754年に発表した政治哲学の古典。

今から260年以上前に書かれた作品であり、“何で今さら”という気持ちも強かったのだが、同じ著者の「社会契約論」と共に“フランス革命の思想的基盤になった”というなら、まあ、一度くらい読んでみても損はないだろう。実際、今でも根強い人気があるらしく、いろんな出版社から翻訳が出ているが、スピノザの「神学・政治論」がとても読みやすかったので同じ光文社の古典新訳文庫版を選択させて頂いた。

さて、この論文は、ディジョンのアカデミーの「人間の不平等の起源はどのようなものか、それは自然法のもとで認可されるものか」という懸賞論文に応募するために書かれたものであり、第一部では、思考実験と後の文化人類学に共通するような方法を駆使することにより、「自然状態では不平等はほとんど感じられないものであること」を証明しようと試みる。

ルソーは自然状態にある人間を「野生人」と呼ぶのだが、そのイメージは森の中を単独でさまよう野生動物に酷似しており、欲望は「身体的な欲求を超えること」はなく、一切の社会性を有さない。しかし、「自分の同胞が苦しんでいるのを目にすること」を嫌悪する「憐れみの情」を先天的に有しているため、これが「法と習俗と美徳の代り」になって、一応、平穏な状態が保たれている。

もちろん、動物と異なり、人間には「自己改善能力」が備わっており、「この能力が時の経過とともに、平和で無辜なままに過していた原初の状態から人間をひきずりだす」ことになるのだが、自然状態においてそれはまだ顕在化されておらず、野生人は「言葉を話さず、家をもたず、たがいに闘うこともなく、他人と交際することもなく」静かに自由に暮らしていた。

そして、そんな自己改善能力を顕在化させてしまった「外部の偶然の要因」を明らかにするのが第二部であり、いきなりネタバレしてしまうと、ルソーの指摘するその正体は「鉄と小麦」。これらが導入されたことにより「一人の人間が他人の援助を必要とするようになった瞬間から、また一人で二人分の食糧を確保しておくのは有益であることに気づいた瞬間から、平等は姿を消し、私有財産が導入され、労働が必要」になってしまう。

もう、その後は坂道を転げ落ちるようなものであり、「法が定められ、所有権が確立された時期」から「為政者の地位が定められた時期」を経て「合法的な権力が恣意的な権力に変貌した時期」へと至る。これが不平等の最終段階であり、「これ以後は、新しい革命が統治を完全に崩壊させるか、合法的な政治体制にふたたび近づけるかのどちらかの道が残されるだけである」。本書が書かれてから35年後にフランス国民が選択せざるを得なかったのは、この前者の道だったんだね。

ちなみに、本書の中で最も有名な「自然に帰れ!」という言葉は本文中にではなく、第一部の注書きに出てくるのだが、本書の解説でも触れられているとおり「ルソーはもはや文明を捨てることも、森に帰ることもできないことを熟知していた」訳であり、彼が唾棄すべきと主張したのは、当時の人々が当然のこととして受容していた「忌まわしい成果、落着きのない精神、腐敗した心、野放しの欲望」のことだった。

ということで、オランウータンの件のように今読み返してみるとおかしな点も少なくないのだが、「国家の首長たちは、結集した人々の力を弱め、分裂させるためにあらゆる策略を企てるだろう」とか「奴隷たちに残された唯一の美徳は、批判せずに服従することだけ」といった指摘は今でも十分通用可能。「自分の卑しさと、こうした人々(=権力者や金持ち)からうける庇護を誇らしげに示し、自分の奴隷状態を自慢して、こうした奴隷状態に加わろうとしない人々を軽蔑する」ような人間にならないためにも、次は「社会契約論」を読んでみるつもりです。