チーズとうじ虫

カルロ・ギンズブルグというイタリアの歴史学者の著作。

「16世紀の一粉挽屋の世界像」という副題からも分かるとおり、本書で試みられているのは16世紀のイタリアで暮らしていたメノッキオという粉挽屋の抱いていた世界像の再現であり、それによって当時の(支配階級に対する)従属階級に属していた人びとの文化、思想を明らかにしようとする。

その際の資料として使われているのがローマ教会による異端審問の記録であり、三位一体や処女懐胎といったキリスト教の教義を否定し、「教会の教える律法と戒律はすべて売り物であり、教会はそれで生きている」と公言して憚らなかったメノッキオは1584年2月に教会裁判所によって逮捕され、異端審問官による尋問を受けることになる。

もっとも、彼自身は決して過激な活動家という存在ではなく、「私は精妙な脳味噌をもっていて、私がよく知らないような程度の高いことを思索したくなるのです」と述べるような一種の衒学家であり、「デカメロン」から「コーラン」までといった幅広い読書から得た知識を駆使して、隣人愛や宗教的寛容といったむしろ常識的と言って良い主張へとたどり着く。

そんな彼の信仰の背景になっているのが本書の題名にもなっているユニークな宇宙観であり、原初の存在であるカオスから「ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ」という主張はなかなか衝撃的。

そして、著者のギンズブルグは、この思想の底流に「宗教改革よりもはるかに古い農民のラディカリズムという自立的な潮流」を認め、「キリスト教、ネオ・プラトニスム、スコラ哲学などに浸透された用語でもって、メノッキオは農民たちが世代から世代へとわたってつくりあげてきた原初的、本能的な唯物論を表現しようとしたのである」と主張する。

まあ、この無類の読書好きで「哲学者、占星術者、そして預言者」を自称する老人の考えが、どれほど当時の農民たちの文化、思想を代表していたのかという点に関しては疑問の余地があるが、このユニークな人物を約400年ぶりに古文書館の資料の中から探し当ててくれた著者の功績には敬意を表するところであり、いつか他の著作も読んでみたいと思う。

ということで、本書を読んでいて一番興味深かったのは意外に丁寧な異端審問のやり方であり、数多くの関係者からの証言を聴くだけでなく、資力が乏しければ官選の弁護人も付けてもらえたらしい。逮捕から判決まで3ヶ月余というのもやむを得ないところであり、逮捕から5ヶ月が経っても不当な勾留が続いている森友学園の籠池夫妻に比べたら、ずっと人権への配慮がなされているような気がします。