フーコーの振り子

ウンベルト・エーコの長編小説第2弾。

本年2月の訃報に接し、彼の作品を一冊も読んでいなかったことに気付いて愕然。映画版の「薔薇の名前(1986年)」がとても面白かったので、いつか(もっと面白いに決まっている)原作の方も読んでみようと思っていたのだが、つい怠けてしまって購入すらしていなかった。

さっそくAmazonで注文しようと思ったが、そのときに目に入ったのがこちらの作品であり、10秒くらい悩んだ末に購入を決意。「薔薇の名前」の映画化が高評価を得たにもかかわらず、本作が映画化されていないのには何らかの理由があるはずであり、それを確かめてみたかった。

さて、内容は俺の弱点の一つであるオカルト物。ちなみにこの場合の弱点は嫌いという意味ではなく、好き過ぎて気を付けていないとコロッと騙されてしまうという意味であり、本書にも出てくるテンプル騎士団グノーシス、ヘルメス等々のオカルト用語に思わずウットリしてしまう。

しかし、当然のことながらウンベルト・エーコの薀蓄の深さは俺如きの比ではなく、“洗濯屋の伝票”を元にして中世から現代に至る歴史を陰謀論で塗り直してしまうという力量はまさに圧倒的。最初の頃は就寝前にベッドで横になって読んでいたのだが、そんな読み方では全く歯が立たないことに気付いて以降は、きちんと椅子に座り、万全の態勢でこのいびつで豊穣な魔術世界に身を委ねる。

まあ、パリの国立工芸院における凄惨な茶番劇のシーンは映像で見てみたいような気もするが、カゾボン、ベルボ、ディオタッレーヴィの三人が取り憑かれたようになって練り上げた「計画」の内容を一般大衆に分かりやすく説明することは著しく困難であり、そんなところが本作の映画化の大きな支障になったのだろう。

ということで、オカルトの魅力の背後に“安直な方法で真理に到達したい”と願う怠惰な精神構造が存在することはまず間違いのないところであり、それを弄ぼうとするときにはそれなりの注意が必要。それを怠ると新興宗教歴史修正主義なんかにハマってしまう結果になるのでしょう。