真実の行方

1996年作品
監督 グレゴリー・ホブリット 出演 リチャード・ギアローラ・リニー
(あらすじ)
シカゴで大司教が惨殺されるという事件が発生し、容疑者として侍者のアーロンが逮捕される。世間が彼を“ブッチャー・ボーイ”と呼ぶような状況の中、無償で弁護を買って出た弁護士のマーティン(リチャード・ギア)は、アーロンの“殺していない”という言葉だけを拠りどころに隠された真実の発見に挑むが、ようやく探し当てた証拠はアーロンの殺害動機を裏付けるものだった….


エドワード・ノートンのデビュー作となる法廷劇。

いきなりネタバレを書いてしまうと、大詰めとなる法廷での証人尋問の最中にアーロンの中からロイという第二の人格が出現し、重度の精神病患者ということで彼は一転無罪になるのだが、最後の最後で二重人格というのはアーロンの芝居だったことが判明するという、非常に後味の悪い作品。

まあ、ラストのどんでん返しに騙されること自体は決して嫌いな方ではなく、本作の前年に公開された「ユージュアル・サスペクツ(1995年)」では、その鮮やかな手口にある種の爽快感さえ覚えたほどであるが、本作のラストはいかにも取って付けたような印象が強く、正直、不快感の方が先に立つ。だいたい、初めて二重人格の症状を目にした場合、最初に“演技”を疑うのが常識というものであり、それを無罪を勝ち取るための切り札にして殺人を企てるという筋書きはあまりにも非現実的。

また、表面上は、金のためならどんな悪人の弁護も厭わない悪徳弁護士を装いつつ、内心では密かに性善説を信奉しているという主人公のキャラクター設定も最低であり、世間から犯人に決め付けられてしまったアーロンを救おうとする姿勢は評価できるものの、その理由は、“アーロンが善人だから”ではなく、“それが弁護士の仕事だから”でなければならない。(余談であるが、例の光市母子殺害事件に関する議論でもこれと良く似た誤解が見受けられる。)

さらに、主人公が法廷で対決する検事に彼の元恋人ジャネット(ローラ・リニー)を持ってきた設定も陳腐としか言いようがなく、彼女が罠と気付かないまま主人公にいいように操られるというストーリーは、女性をバカにしていると批判されても仕方がない。問題の尋問シーンにしても、彼女があれほど感情的にならなければならない理由は一体何だったのだろう。

ということで、色々と悪口ばかり書いてしまったが、唯一、19歳の少年アーロンに扮したエドワード・ノートンの演技力だけは非の打ちようがないところであり、二重人格の使い分けだけでなく、公開当時の彼の実年齢が27歳だということも含めて、感心させられました。