渋江抽斎

江戸時代末期の医師・考証家である渋江抽斎と彼に関わりのあった人々を取り上げた森鴎外の作品。昔、“鴎外は史伝が一番面白い”という話をどこかで聞いた記憶があり、いつか読んでみようと思っていた。

“史伝”というのを読むのはこれが初めてであり、おそらく伝記みたいなものなんだろうと思って読み始めたのだが、実際には子供の頃に読んだような“偉人の伝記”とは相当異なる内容であり、主人公の生き方から教訓を得るという目的には不必要と思われるようなデータまでが詳細に記述されている。

そもそも、鴎外が渋江抽斎という(歴史上あまり重要とは思われない)人物に興味を抱いた経緯自体、ほとんど偶然のようなものなのだが、そんな彼が抽斎や彼に関わりのあった人々に関する様々な資料を入手するために行ったフィールドワークの様子が描かれている冒頭部分には、まるでミステリイ小説を読んでいるような面白さがある。

また、鴎外の主要な情報源が、抽斎とその4番目にして最後の妻である五百との間に生まれた末子の保からの伝聞であり、しかも抽斎は彼がわずか2歳のときに死去してしまっているという特殊事情もあって、抽斎本人のみならず五百や優善(=抽斎の次男)その他のユニークなキャラクターが大挙登場するのも本書の大きな楽しみの一つだろう。

そして、そういった方々に関する細やかなエピソードを、一見、年代順に並べただけのような体裁をとっているのだが、実は、抽斎と五百との結婚に秘められた意外な真実については彼女の死の時点で明らかにするといった具合に、全体の構成にも細心の注意が払われており、正直、本書の面白さを一言で言い表すことはなかなか困難である。

ということで、本書を一読することにより、渋江抽斎という江戸時代末期に生きた人物の一生やその交友関係等をかなり詳細に知ることができる訳であり、矛盾した言い方ではあるが、何か、古い友人が出来たようなホッとした気分にさせてくれる作品でした。