地下室の手記

ドストエフスキーが「罪と罰」を書く前に発表した中編小説。現在、5大長編読破までにあと「白痴」を残すばかりという状況なのだが、あまりあっさりと終わらせてしまうのも何なので、その前に問題作と言われる本書を読んでみた。

内容は2部構成で、前半の「地下室」では当時のロシアにおける(西欧風の?)理性万能主義的な風潮に対する主人公の批判が延々と語られており、また後半の「ぼた雪に寄せて」では彼が青年期において体験した非常に痛ましいエピソードがあからさまに記されている。まあ、普通の意味では決して面白い内容ではないのだが、なかなか途中で止めることができず、結局、最後まで一気に読んでしまった。

本書の主人公は、高いプライドとどうしようもない卑屈さとを併せ持った孤独な中年男であるが、この手記の内容に関してはちょっと偽悪趣味と疑われる程に正直であり、不完全な存在である自分をそのまま読む人に理解して欲しいという思いがヒシヒシと伝わってくる。おそらく、彼のそんな願いが読者の心を掴んで離さないのだろう。

亀山郁夫氏は、ドストエフスキー作品におけるこういった自虐的なキャラクター設定をマゾヒズムから説明しようとしているようであるが、本書の主人公に関して言えば、俺には自分の誠実さの確認行為といった印象の方が強く、そこに性的な要素が介在する余地は少ないように思われる。

ということで、第2部の最後のところで出てくる、帰ろうとするリーザに主人公がお金を渡すという行為の元ネタはトルストイの「復活」なのかと思って調べてみたところ、本書の発表(1864年)の方が「復活」の連載開始(1899年)よりもずっと先のことであり、この推理は大ハズレ。うーん、このネタって割によく使われるものだったのでしょうか。