正統とは何か

G.K.チェスタトン著作集の1巻目。

さて、本書のテーマである「正統とは何か」という問に対する答は、早くも冒頭の「1 本書以外のあらゆる物のための弁明」の最後で明らかにされており、それは「厳然たる事実として、キリスト教信仰の核心が、現実生活のエネルギー源として、また健全な道徳の根源として、最善最上のものだ」というもの。

先日読んだ「新ナポレオン奇譚」と同様、解題を担当しているピーター・ミルワードによると、本書が発表された1908年当時のイギリスでは「あらゆる存在が神によって創造されたことを否定するのは言うまでもなく、根本的に人間の理性と常識を否定」するような思想家たちがもてはやされていたそうであり、そんな風潮に対する反論として執筆されたのがこの著作ということになるらしい。

続く「2 気ちがい病院からの出発」と「3 思想の自殺」では、唯物論懐疑論、進化論といった当時の「現代思潮」が俎上に載せられているのだが、それらに対する評価は散々であり、「狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」と説く著者にとって、「健康人の持つ躊躇も、健康人の持つ曖昧さ」も失ってしまい、「根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性」のみに取りすがろうとする思想家たちは「気ちがいと同じように見える」らしい。

一方、「けっして疑うべきではないはずのもの―神にも似たその理性」に対する信頼を失ってしまったことも「現代思潮」の憂慮すべき問題点。「人間の知性には自己破壊の力」があること、そして「もしやみくもに万事を疑うとするならば、まず疑われるのが理性である」ことを「人びとは本能的に悟っていた」訳であり、そんな「思想を破壊する思想」から理性を守ることこそが「あらゆる宗教的権威」の目的であったことを我々は再認識しなければならない。

さて、このような「現代思潮概観」の後、いよいよ著者の人生観が披露される訳であるが、「4 おとぎの国の倫理学」と「5 世界の旗」で明らかになるのは、「民主主義と伝統―この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える」という著者の伝統主義と、「われわれの人生にたいする態度を表わすのには、頭で考えて良し悪しを言うのよりは、一種の軍隊的忠誠の問題として言ったほうが適切である…私がこの宇宙を良しと見たのは…むしろ愛国心と言ったほうがよい」という愛国主義

正直、著者に対して抱いていたイメージとのギャップにちょっと戸惑ってしまうのだが、「反逆者はあらゆる王国よりも古い歴史を持ち、王朝にたいする反逆者は、あらゆる王朝の支持者よりも長い伝統を持つ」という言葉からも分かるとおり、著者の伝統主義は権威主義とは無縁であり、また、「自分の国を愛するのに、何か勿体ぶった理由を持ち出す連中には、単なる偏狭な国粋的自己満足しかないことが往々にしてある。…愛国心によって歴史を歪曲するようなことをあえてする人びともまた、実は歴史を愛国心の根拠にする人びとだけなのである」と歴史修正主義にも手厳しい。

続く「6 キリスト教の逆説」では、「われわれが求めるのは、愛と怒りの中和や妥協ではなく、二つながらその力の最強度において、二つながら燃えさかる愛と怒りを得たい」というキリスト教倫理の本質が明らかにされるが、それは第2章で紹介されている「大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾をひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである」という「平常平凡な人間」の感覚に通底しているように思われる。

そして、次の「7 永遠の革命」が本書のクライマックスであり、まず、ここまでの要約として「第一、この世の生活を信じなければ、この世の生活を改善することさえ不可能であること。第二、あるがままの世界に何らかの不満がなければ、満足すること自体さえありえぬということ。第三、この不可欠なる満足と不満足を持つためには、単なるストア派の中庸だけでは足りぬこと…単なる諦念には、飛び立つような巨大な喜びもなければ、断固として苦痛をしりぞける力もないからだ」という三つの命題が示される。

本章でこれに追加されるのが「われわれはもう一つ別の世界が大好きでなければ、この世を変えるべきそのモデルが見つからぬ」という最後の命題であり、「ある一日マルクス主義者になったかと思えば、あくる日はニーチェ主義者、そしてその次の日はきっと超人になる」というのでは「来る日も来る日も奴隷であることに変わりがない。…こういう哲学すべてによって得をしているのはただ一人、工場主だけというわけである」。

したがって、「進歩の目標となる理想」、すなわち著者のユートピアにとって「まず第一に必要なのは、それがみだりにぐらつかないということ」であり、「永遠の理想は、保守派に必要なばかりでなく、革新派にも同様に必要だと言えるのである。王の命令が直ちに執行されるのを望む場合も、王の死刑が直ちに執行されるのを望む場合も、立場にかかわりなく永遠の理想は必要なのである」。著者の伝統主義や愛国心はこの要件に結びついているのだろう。

第二の要件としては、「それは複合的でなければならぬということ」であり、「われわれの魂に真の充足を与えるためには、愛か誇りか、平和か冒険か、そのどちらか一つが勝ち残り、他の一切を呑みこんでしまう」のではなく、「こういう要素が最善の釣合いを持ち、最善の調和を保って、一幅の明確な絵を構成しなければならぬのである」。

そして第三の要件は、「われわれは、ユートピアにおいてさえもいつも目を見開いて注意を怠ってはならぬということ」であり、「たとえば白い杭を放っておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいというのなら、いつでも何度でも塗り変えていなければならない―ということはつまり、いつでも革命をしていなければならぬということなのである」。

著者はここで白い杭がたちまち黒くなってしまう理由として、「人間の美徳は、その本来の性格からして、いずれ錆びつき、腐るものなのだ」というキリスト教の教義を紹介しているが、これこそが人間の「原罪」であり、「金持を完全に信用することに、条理をつくして反対できるのはただキリスト教だけだ。…危険は人間の環境にはなく、人間自身の中にある」ということになる。

このことからも明らかなとおり、著者がこれらの要件をすべて満たすユートピアとして推奨しているのが伝統的なキリスト教の世界であり、著者が「のろのろと、自分の頭で、いわば一字一字考え出していった」理想が、「私などよりはるか前に、すでにちゃんと」キリスト教の世界で実現されていたことを再発見する、というのが本書のキモになっている。

そんな著者が要求するユートピアの最後の要件は、「自分のした取り引きには是が非でも責任を取らされるのでなければならぬ」ということなのだが、その説明に際し、「現実的にして取り返しのつかぬ最大の例の一つ」として「キリスト教の結婚」を挙げているところが何とも面白い。

さて、続く「8 正統のロマンス」でキリスト教と「仏教や東方の運命論」との比較(=キリスト教は「あらゆる神学のうちで最も冒険に富み、最も男らしい」)等を行った後、最後の「9 権威と冒険」では「もしキリスト教的正統という栗のイガの中に、良識の栗の実が入っているのが明らかだというのならば、なぜ栗の実だけ取ってイガは捨ててはならぬのか」という「一通り物のわかる不可知論者」からの興味深い“問い掛け”を取り上げている。

これまでの唯物論批判等もそうであったが、ここでの著者の“回答”は少々底の浅いものであり、正直、「一通り物のわかる不可知論者」をキリスト教に改宗させるだけの内容にはなっていない。しかし、「もしわれわれが貧しい人びとを護りたいと望むのならば、何としても不動の規範と明確なドグマとに賛成するはずだ。早い話が、社交クラブの規則は時として貧しい会員に好都合なこともあるが、成り行きまかせの変化を許せば、クラブはたちまち富める者に好都合なものに変わっていくからである」という主張には共感せざるを得ず、もし、このような倫理観が健在であったなら、今のようにイギリス国民が新自由主義に支配されることもなかったであろう。

残念ながら、我が国におけるキリスト教の影響力は決して高くはないが、本書を読んでいて何度も思ったのは、その代わりとして我々はもっと“正義”という理念に自信を持って良いのではないかということ。どんなに優秀であっても、どんなに努力したからといっても、一部の人間の得る収入が庶民の数十倍になるような社会は正義に反している訳であり、我々は自信を持ってそれに抗議していかなければならない。

最近は“正義の暴走”などと揶揄されることも少なくないが、本来的に弱者の味方であるべき正義が津久井やまゆり園事件のような凶行を許すはずがないのは当たり前のこと。勿論、論理的に何が正義かを判断することが難しい場合もあるだろうが、おそらくそれはキリスト教信仰においても起こりうるジレンマであり、そのときには「大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次」という庶民の常識に立ち返ってみれば良いのだろう。

ということで、期待したとおりとても面白い読み物であり、これですっかりチェスタトン・ファンになってしまったみたい。しかし、注意すべきなのは、本書は彼が35歳のときに書かれたという衝撃の事実であり、う~ん、この漲るような自信はいったい何に由来するのだろう。ちなみに、本書を読みながら考えた自己流キリスト教論(?)を最後に備忘録的に書いておこうと思います。


1 人間というのは、知恵によって自然に逆らって生きていくことを選択した時点で“矛盾した存在”になった訳であり、その矛盾こそが聖書にいう原罪なのだろう。確かに、キリストが十字架に掛けられたことによって原罪は許されたはずであるが、それはこの矛盾自体が解消された訳ではなく、人間が矛盾した存在であるということが許容されたにすぎない。(注:ここはチェスタトンの原罪論とは異なる。)

2 つまり、人間はその出発した時点で矛盾しているのだから、その後の人生が矛盾だらけになるのは当然のことであり、むしろ相矛盾する「二つのものを二つながらまったく生かして、二つながら激越なるがままに包み込むという方法」を選択するのでなければ、人生の喜びを満喫することは出来ない。

3 したがって、危険なのは矛盾のないまっすぐな理論の方であり、そういったものには十分用心しなければならない。それを見分けるために重要なのが伝統、簡単に言えば庶民の常識であり、どんなに理屈の通った魅力的な議論であっても、それが常識的とは思えない極端なことを言い出したら、その時点で眉にツバを付けてみるべきである。

4 なお、ここで伝統というのは物や制度ではなく、それが実現しようとしている理想、理念のことであり、当然、時の権力によって拘束されるようなものでもない。白い杭をいつまでも白く保つためには何度でも白く塗り直す必要があるのと同様、伝統を維持していくためにはむしろ不断の革命が必要になってくる。