二十日鼠と人間

1937年に出版されたジョン・スタインベックの中編小説。

以前読んだ「怒りの葡萄」がとても面白かったので、その2年前に発表されたこの作品を読んでみることにした。「怒りの葡萄」のテーマが“怒り”だとすれば、本作のそれは“孤独”であり、不況の長引く中、カリフォルニア州を放浪するジョージとレニーという二人のホーボーの悲劇的な友情の行方が描かれている。

二人は幼馴染みらしいのだが、「小がらできびきびしてい」るジョージに対し、レニーの方は柔らかくて「気持のいいものをなでるのが好き」という「うすのろ」の巨漢。「400ポンドのたわらだって、持ち上げ」るほどの怪力の持主だが、その力をセーブすることが苦手なため、二十日鼠でも子犬でも撫でるときについ力を入れすぎて殺してしまうことが度々ある。

そんな二人が働くことになる農場のリーダー的存在であるスリムの話によると、「他人のことなんか、かまっている者はいやしねえ」というのがホーボーの実態らしく、彼はジョージ向かって「あいつみたいなばかと、おまえみたいなはしっこい男が、つながって歩いていると、おかしな気がする」と言うのだが、その理由を教えてくれるのは農場で唯一人の黒人である背中の曲がったクルックス。

他の労働者とは別に馬具置場で一人寝起きしている彼は「黒ん坊だからというんで、飯場にもはいれねえし、トランプ遊びもできねえ」という境遇なのだが、そんな人種差別さえ知らずに彼の部屋に入ってきたレニーに対し、「人間はだれか相手が入用なんだ―だれかしらが、そばにいることがな」と訴える。

実は、うすのろのレニーの前でつい本音を漏らしてしまうのはクルックスだけに限らず、老いぼれ掃除夫のキャンディや失意の日々を送っている淫乱な新妻もレニーの前では妙に素直になってしまうのだが、それはスリムの言うとおりレニーが「いいやつ」であり、「いいやつになるには、あたまはいらねえ…ほんとに利口な男には、いいやつなんてめったにいねえから」なんだろう。

そんな“友情”とともに人間にとって欠かせないのが“希望”であり、いつの日か、ジョージが購入した小さな農場で兎の世話をさせてもらうのがレニーの夢。しかし、そんなささやかな夢さえ理解しようとしない世間のルールによって、彼は、「こいつを生かしておくのは、かえってかわいそうってもんだぜ」という理由で殺されたキャンディの老犬のように射殺されてしまうのだが、残念ながらこの愚かなルールは現在でも“生産性”と名前を変えて生き残っているようである。

ということで、本作は「戯曲を小説形式によって書いた…一つの実験」らしいのだが、確かに全体的な構成は良く練られており、一つとして無駄なエピソードの存在しない完成度の高さには驚かされるばかり。しかし、そんな完璧さが少々物足りなさを感じさせてしまうのも事実であり、小説としてはもう少しほっこりできるダレ場みたいなものがあっても良かったのではないでしょうか。