西南役伝説

西南の役(1877年)を知る古老たちから聞取りを行った様々なエピソードを題材にした石牟礼道子の短編集。

“あとがき”によると、本書を執筆するそもそもの動機は、「地上の形はごらんの通りなので、なぜそうなるのか根の育ち方を知りたかった」からであり、そのために「この世の仕組みの最初のひとり」である「目に一丁字もない人間が、この世をどう見ているか…を百年分くらい知りたい」と考えたのが古老からの聞取りを始めたきっかけらしい。

したがって、西南の役をテーマに選んだのも「そういう人間に百年前を思い出してもらうには、西南の役が思い出しやすいだろう」という戦略的な理由からに過ぎず、本書にはそれとは直接関係のない文章も多数含まれているのだが、“西南の役を含んだ「御一新」を当時の農民がどう捉えていたのか”が分かるようなエピソードに興味深いものが多いのも事実。

第一章「曳き舟」では、洗った肥桶で村人に酒を振る舞おうとする庄屋が登場し、「お前共平民も、苗字を名乗ってよかごとなるちゅうて威張ってみよるが…よかか、洗うても肥桶は肥桶ぞ」という暴言を吐くのだが、それまで四民平等という明治政府のスローガンにピンとこなかった農民たちも、それを聞いて「はあん、こういう風なら、やっぱり侍も百姓もひとしなみになるちゅうのはまことかもしれん」とようやく実感が湧いてくる。

しかし、西南の役が始まってみれば、村中の男たちは官軍の人夫として強制的に曳き舟に乗せられて徴用されてしまい、「苗字のなか者の世がくるちゅうても、お上というものがあるかぎり、取り立てることばっかり。御一新とはどがな世が来るかと心配しとったら、案のごとく人を奪ってゆかいた」ということになる。

さらに、その後の諸外国との戦争では「あのとき村の男どもをひき攫うて行った(曳き舟の)太綱のかわりに、こんだは…われとわが手で、別れの舟をひく儀式をなして、互いに曳き舟をひく」ようになってしまい、これが御一新の目指した近代化の実態。確かに「戦争しちゃ上が替り替りして、ほんによかった。今度の戦争じゃあんた、わが田になったで」(序章「深川」)というメリットもあったのだろうが、それは決して国家が望んだことでは無かった。

また、弘化四年(1847年)に起きた“弘化年度打毀乱防件”を扱った第4章「天草島私記」は本書の白眉ともいうべき力作であり、「雨量に恵まれながらそれを貯えておく地力」が乏しいという痩せた土地で多くの流人を受けいれてきた島民たちが、先祖伝来の田畑を銀主によって奪われることを恐れて起こした大一揆の背景が詳しく述べられている。

その首謀者とされる永田隆三郎は、一応、庄屋の身分ではあるものの、所有していた農具等は極めて質素なものばかり。後年の研究者に「事を起こす前、農具など小前百姓らに分け与えていたのではないか」と言われるあたりは、先日、読んだ「国家に抗する社会」で紹介されていた権力を持たないインディアンの首長と共通する何かを感じさせる。

結局、その痩せた田畑こそが「生命の母胎であると共に魂の依る所」であるという「前近代の民の訴えたかった心情」は、御一新を指導した近代的エリートたちに正しく理解されることは無く、一揆は鎮圧され、首謀者の永田は獄門さらし首。「その極限に水俣のことがある」という作者の嘆息は、そのまま現在の辺野古の住民たちの心情でもあるのだろう。

ということで、“さらにあとがき”に記されている「この中の『天草島私記』は一冊に書き直したいと考えていた」という夢が実現する前に、石牟礼道子は今年2月に他界してしまった訳であるが、幸い、彼女の著作はまだまだ沢山残っている。次は、本書の解説で紹介されていた「春の城」を読んでみようと思います。