「文明論之概略」を読む

丸山真男による福沢諭吉の「文明論之概略」の注釈書。

竹内好による脱亜入欧論批判の影響もあって、福沢諭吉に対してはあまり良い印象を抱いていなかったのだが、その一方で丸山の“福沢惚れ”も有名であり、この本も、まあ、いつかは読んでみなければと思っていた作品。先日、「明治維新」の中で遠山茂樹が福沢のことを好意的に取り上げていたのを読んで、ようやく重い腰を上げてみることした。

さて、本書は、著者が指導者を務めた「まったく私的な読書会」の録音テープがベースになっているそうであり、「これほど戦前から何回とかぞえきれないほど繰り返し愛読し、近代日本の政治と社会を考察するうえでの精神的な糧となったような、日本人による著作はほかになかった」という福沢の「文明論之概略」に対する彼の愛情がギッシリ詰まった内容になっている。

著者によると、福沢のナショナリズムの一貫したテーマは「欧米列強の圧力に抗してどうやって日本の独立を保つのか」というものであり、そんな彼が緊急の課題として捉えていたのが、日本を「国民国家」にするとともに「主権国家」にするというもの。これがすなわち「一身独立して一国独立となる」ということなんだろう。

その「国民国家」化に関しては、「近日に至り政府の外形は大いに改まりたれど、その専制抑圧の気風は今なお存せり。人民もやや権利を得るに似たれども、その卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず」というのが福沢の現状認識であり、そこから「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」という結論に至る。

その原因として挙げられているのが、「事実上の大小に…小より大の方が偉いのだという価値づけ」が伴ってしまうという我が国の陋習に起因する「権力の偏重」であり、「治者と被治者との間が高壁で隔てられ…一切の社会的価値が、全部治者の側に磁石のように吸いとられてしまう」ために「被治者の側には…政治的無関心だけでなく、一切の社会や文化の問題にたいする傍観的態度が生まれ」てしまう。

「政治は文明の関数」であり、「人民が愚になれば政治の力は衰弱する」と考える福沢にしてみれば、「政府に対してかくも無気力無抵抗な国民は、外国の権力に対してもやはり…おとなしく服従するだろう」としか考えられず、一人前の国民国家を築き上げるためには(付け焼き刃的な「採長補短論」では足りずに)「まず精神革命をやらなければならない」というのが彼の出した結論。

そして、その際のお手本になるのが「神政政治、君主政治、貴族政治、民主政治といった諸か原理の間の闘争がいわば恒久化し、そのいずれもが社会を独占することに成功しなかった」ことに由来するヨーロッパ文明の多元性。それは、至強と至尊とを区別しようとしない一元的な儒教の教えとは真逆の思想であり、そこからあの有名な「自由の気風は唯多事争論の間に存するものと知る可し」という言葉が導き出される。

さて、もう一方の「主権国家」化については、当時における「自由と平等を旗印とする西洋列強の、日本(広くはアジア)における行動の背理と偽善性」やそれらに対する「日本の知識人、とくに人民同権の説を唱える知識人の不感症−という言葉がいいすぎなら−鈍感さ」に向けられた福沢の怒りが余程大きかったせいか、かなり過激な内容になっている。

それは、「これまでの人的な主従関係をモデルにした『モラル・タイ』…を『ネーション』を対象とする『報国心』に転轍するのが、『いま』の日本の切実な課題」であるという主張であり、その報国心、すなわち愛国心は「党派心の一種とされ、自分の党派を偏頗にえこひいきする心情として、リアルな、というよりもむしろ下品な心情レヴェルで定義され」ている。

こういう考え方は、明治10年代以後における東アジアの国際情勢の切迫に際しても根強く保持されていたそうであり、その際には「日本国も、こうなった以上、西洋列強と同じく『禽獣国』の一員として行動するのだ」とか、「朝鮮の内政に干渉するは義侠にも非ず、深切にもあらず、全く自家の利益を謀るに在るのみ」といった発言も見られたらしい。

これに関して著者は、こういった偏頗性の自覚は、「底のしれない泥沼のような自己欺瞞や偽善」とは異なり、むしろ「四海兄弟」といった普遍的理念性との矛盾の感覚を不断に呼び起こすものであるとして、必死に(?)福沢を弁護しようとしているのだが、まあ、ここでの主張は「今の世界の有様を察して、今の日本のためを謀り、今の日本の急に応じて説き出したるもの」に過ぎず、到底、現在の我が国の外交方針にはなり得ないものだろう。

以上が著者の解説に基づく「文明論之概略」の概略であるが、ここで引用した以外にも「利害得失の判断より軽重是非の判断の方がむずかしい」とか、「自由はつねに諸自由(リバティーズ)という複数形であるべきで…まさにそのいろいろな自由のせめぎ合いの中に自由があるのだ」、「智力でさえも…その以外の権力によって制限されないと腐敗と濫用の源になる」といった貴重な指摘が数多く含まれており、正直、とても勉強になる内容だった。

ということで、我が国のおよそあらゆる社会関係のなかに構造化されていると指摘された「権力の偏重」は、「文明論之概略」の出版後、140余年が経過した現在もバリバリの現役であり、単なる「『くに』への依存性、所属性の意識」ではなく、「この『くに』は俺が担っているのだ、俺の動きで日本国の動向もきまるのだ、という意識」を持った「国民(ネーション)」の創出もいまだ道半ばといったところ。福沢の憂鬱を昔のことと言って笑えるようになる日は、一体いつになったら訪れるのでしょうか。