方丈記私記

堀田善衛が1971年に発表した「方丈記」の注釈本(?)。

著者に言わせると「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典のひとつである鴨長明方丈記』の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ」とのことであり、要するに平安末期から鎌倉へと続く大乱世を生き抜いた鴨長明の体験と自らのそれとを照らし合わせながら、天皇制をはじめとする日本文化の伝統について考察する、っていうのが本書の狙い(だと思う)。

それが最も良く現れているのが、東京大空襲のほぼ一週間後である1945年3月18日に著者が体験したエピソードに関する記述であり、「方丈記」に記された安元の大火のように一面の焼け野原となってしまった富岡八番宮付近で、彼は天皇の一行がピカピカの車に乗って被災状況の視察を行っている現場に遭遇する。

そこで目にしたのは、焼け出された人々が「土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼かれてしまいました、まことに申訳ない次第でございます」といって天皇に詫びる姿であり、「責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる」という異様な事態に対して猛烈な違和感を抱く。

実をいうと、一面の焼け野原を目にした著者は、既存の社会秩序が全て崩壊した後には新しい社会が訪れるのではないかという「平べったい期待」を抱いていたのだが、この光景を目にすることによって「人民の側において、かくまでの災殃をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったとしても、この…体制は維持されるであろう」という絶望的な思いにとらわれる。

この「政治であって同時に政治ではない。責任もへったくれもあったものではない。このように責任ということとまったく無関係な体制」は、「地震と天下騒乱の間を通じて撰の行われていた千載和歌集…に、兵乱、群盗、天変地異の影が」全く見当たらないことからも明らかなとおり、平安以降の我々の文化と思想の歴史のなかに連綿として生き続けてきたものであり、著者は、この「生者の現実を拒否する」という「本歌取りの思想」の内に天皇制というものの存続の根源を見出そうとする。

そんな天皇制は「木曽の山猿の義仲であろうが、平清盛だろうが、源の義経だろうが、頼朝だろうが、とにかく京の事態を一時とりまとめてくれるものでありさえすれば、誰でもよく何でもかまわない」という無節操さと、「敵と妥協し、敵に通じても自己保存をはかることを自己目的とする」という戦略によって明治維新も楽々と乗り切ってきた訳であるが、戦後の状況に関しては本書でも全く言及されていないのがとても残念。

しかし、「生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが…ヒステリックに憧憬されていた時期」というのは、格差の拡大と“日本スゴイ”とが同居している現状にも通じるところであり、また、森友・加計問題をはじめとする一連の不祥事に対して政権の中枢にある者が誰一人として責任を取ろうとしないのは、正に「政治であって同時に政治でないという政治」が生き続けていることの証拠。「『日本』の業は、深いのだ」という著者の嘆息が今でも何処かから聞えてくるような気がする。

ということで、この「本歌取りの思想」を支えているのが我々国民の中に巣くっている“奴隷根性”であり、かつて魯迅が自国に関して述べていた「この国には、奴隷になろうと思ってもなれぬ時代としばらく無事に奴隷になれる時代しかなかった」という指摘は、そのまま我が国にも当てはまるのだろうと思います。