人間の測りまちがい −差別の科学史−

米国の古生物学者であるスティーヴン・J.グールドが1981年に発表した著作。

これまで読んだことはないが、科学エッセイストとしても有名なグールドの本ということでもうちょっと軽めの文章を予想していたのだが、内容はいたって真面目であり、特に知能を具象化するために用いられたという因子分析に関する第6章の説明はかなり難解。しかし、本書のテーマ自体は一貫しているので、何とか最後まで読みとおすことが出来た。

さて、そのテーマというのは「生物学的決定論」、すはわち「主として人種、階級、性別などの人間のグループ間に見られるそれぞれの行動規範や社会的、経済的差異などは遺伝的、生得的な区別から生じる」という議論の有する欺瞞性を暴くことであり、その根拠として利用されてきた“知能の定量化”を「人間の測りまちがい」であるとして厳しく批判する。

「第2章 ダーウィン以前のアメリカにおける人種多起源論と頭蓋計測学」では、当時の常識であった人種のランクづけ(=白人>インディアン>黒人)を正当化するために考案された人種多起源論(=それぞれの人種は生物学的に別個に創造された。)が紹介されているのだが、その科学的根拠とされたのが脳の大きさから客観的に人種をランクづけられるというモートンの頭蓋計測学。

当然、その大きさは白人>インディアン>黒人となるのだが、残されている生データから著者が算定し直してみるとそのような差異は見出せない。すなわち、それはモートンの「非常に強いア・プリオリな確信」が無意識のうちに作用した結果であり、それにもかかわらず、聖書の教えに反するという理由から人種多起源論が多数派になれなかったというのは、ちょっと皮肉で面白い。

とはいえ、「第3章 頭の測定」で述べられるとおり、進化論が普及した後も頭蓋計測学は生き残り、「数字への魅力」と相まってブロカの「他の条件が同じなら知能の発達と脳容量との間には顕著な相関関係が存在する」という理論に結びつく。しかし、それも「人種が知的価値という直線的な物差しでランクづけできる」という彼の偏見に基づいたものであり、次々に明らかにされる様々な矛盾点の前に次第に力を失っていく。

進化論から導き出されたと主張するもう一つの誤った試みが、「第4章 身体を測る」で紹介されているロンブローゾの犯罪心理学。「それは望ましくないと考えられるグループの中にサルに似た形態の兆候をさがすこと」であり、「犯罪者は我々の中の進化的な先祖返りである」と主張する。

彼はこの「先祖返り」に起因する「生得的な犯罪者」に対しては更生の可能性を否定するのだが、「仮釈放、早期釈放、不定期刑といった最近みられる制度が、部分的には、生得的な犯罪者と一時的な犯罪者に対して違った処置をすべきだと主張したロンブローゾのキャンペーンに由来している」というのは、これまた皮肉なことである。

そして、頭蓋計測やサルとの類似性といった解剖学的な方法に取って代わったのが、「第5章 IQの遺伝決定論」と「第6章 バートの真の誤り」で取り上げられているIQであり、最初、「特別な教育を必要とする能力の劣った子ども…を特定する実際上の指針」としてビネーにより考案されたものが、ゴダードをはじめとするアメリカの遺伝決定論者たちによって「生得的知能」を具象化したものとされてしまう。

「知能はたった一つの数値でとらえるには余りにも複雑である」にもかかわらず、このような考えは「人種差別主義者や優生主義者の重要な社会的武器」にされてしまい、その傾向を決定的なものにしたのがヤーキーズの陸軍知能テスト。その結果には環境要因の無視をはじめ多くの問題が内包されていたが、白人は黒人よりも知能が高く、前者の中では北方人種>アルプス人種>地中海人種の順に優れているという結論は、1924年の移民制限法の制定に大きな影響を及ぼした。

一方、イギリスではこのIQがバートによって社会階級の違いを正当化するための根拠として利用されるが、それは「もし人種がアメリカの主要な社会問題であるとすれば、階級はそれに匹敵するイギリスの関心事であった」から。また、「生徒をランクづけることに興味があった」バートは、俺も子どもの頃に受けさせられた知能テストの発案者にもなった。

最後の「第7章 否定しがたい結論」では著者の古生物学者らしい総括が述べられているのだが、正直、そこで繰り広げられている人間社会生物学批判については、知識不足のせいでちょっとついていけない。しかし、「ネオテニーによって人間が進化した」という著者の考えは興味深いものであり、機会があればそれに関する著作も読んでみたい。

ということで、本書で批判されているのは、そのほとんどが過去に属する議論なのだが、「現存する社会の階層が正当なものであり、必然的なものであるとするために、理性に、あるいは宇宙の本質に訴えることが歴史上しばしばなされてきた」のは事実であり、その歪んだ欲望は姿を変えて(=脳科学?)現在もしぶとく生き残っているに違いない。科学は常に絶対的真理に向うものではなく、その時代の文化的脈絡によって大きな影響を受けるということをしっかり肝に銘じ、似非科学に騙されないよう注意したいと思います。