スリー・ビルボード

今日は、妻&娘と一緒に今年のアカデミー賞の有力候補の一つである「スリー・ビルボード」を見てきた。

ギレルモ・デル・トロ監督のファンである俺としては、彼の「シェイプ・オブ・ウォーター」にアカデミー賞の主要部門を独占してもらい、それを足掛かりにして「狂気の山脈にて」の映画化を実現させて欲しいところであるが、その最大のライバルになりそうなのが本作であり、まあ、敵情視察(?)を兼ねて映画館へと向う。

さて、ストーリーは、娘を殺された母親ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)が、7ヶ月経っても犯人が見つからないことに業を煮やし、無能な警察署長を中傷するような屋外広告を出すところから始まるのだが、舞台がミズーリ州の田舎町ということで、“犯人は町の有力者のバカ息子であり、その親に遠慮した警察署長が事件のもみ消しを図っている”なんてことは誰にでも容易に予想できてしまう。

ところが、そんな観客の予想を次々に裏切り続けていくところが本作のミソであり、無能と思われた警察署長は実はなかなかの好人物。誠実な人柄から、部下の警官たちのみならず、町民からの人望も厚いため、彼等の批難は屋外広告を出したミルドレッドの方に向けられることになってしまう。

結局、殺人犯が誰だか最後まで分からないまま映画は終ってしまうのだが、それに代わって明らかにされるのは“完全な善人も、完全な悪人もいない”という至極当たり前の真実であり、実は主人公のミルドレッドも様々な人格的欠点を有している。屋外広告を出したのも、娘の死に対する自分の責任から目を反らしたかったからなのかもしれない。

一方、悪徳警官の典型のようなディクソン巡査も、実は刑事になることを夢みる未熟な人間の一人であり、警官をクビになってしまってからも町の酒場で殺人犯が現れるのを辛抱強く見張っている。そして、そんな二人が自暴自棄な気持ちから思い付いたある犯行を思い止まるというラストは、本作にしてみれば最高のハッピーエンドであり、う〜ん、敵ながら天晴れな脚本だなあ。

ということで、トランプ政権の発足後、様々な形で現れた分断の一つを修復するようなメッセージの込められた作品であり、賞レースにおいてこの点が高く評価されるのは間違いないだろう。ただし、監督のマーティン・マクドナーが英国人だというのが微妙なところであり、米国人のプライドが意外な障壁になるかもしれません。