ヴィルヘルム・テル

ドイツの文豪フリードリヒ・フォン・シラーが1804年に発表した戯曲。

我が子の頭上に置かれたリンゴを射落とした逸話で知られる弓の名手ウィリアム・テルのお話しであり、正直、子供向けのおとぎ話という認識しか持っていなかったのだが、ときどき読書案内の参考にさせて頂いている某サイトの管理人さんが本作を激賞されていたので、とりあえず読んでみることにした。

さて、ベースになっているのは、ハプスブルク家の圧政に反対するスイス連邦(=ウーリ、シュヴィーツウンターヴァルデンの3州)の独立運動のお話しなのだが、意外にも主人公のテルはこの独立運動に直接関与しておらず、本書の解説で「この作の中で最も重要な場面」とされるリュートリーの原での同盟誓言のシーンにも立ち会っていない。

もちろん、例のリンゴのエピソードは出てくるし、終盤、ハプスブルク家の悪代官であるゲスラーを射殺するのもテル自身なのだが、それは独立運動のためというより、愛する息子に向って矢を射ることを強いられた不条理に対する抵抗として描かれており、少なくとも本書を読む限りでは彼を独立運動のリーダーとして考えることは出来ない。

まあ、その最大の理由は、本書の解説でも触れられているとおり、(独立運動が史実であるのに対し)テルの物語が伝説にすぎないからであり、シラーが参考にしたチューディーの「スイス年代記」には既に取り上げられていた例のリンゴのエピソードも、実際には10世紀頃にデンマーク王に仕えていたトコという人物の逸話からの借用らしい。

しかし、そうはいっても“本来無用の存在であるテルの物語があえて伝説に加えられたのは何故か”という疑問が残る訳であるが、結論を先に述べてしまうと、それはおそらくスイス独立のための抵抗を“やむにやまれぬ行為”として正当化するための象徴として付け加えられたのではなかろうか。

実は、本作において“殺人”は一貫して否定的に捉えられており、例えば自分の父親の目をくり貫いた仇の命を奪わなかった行為に対し、「天晴れだ、よくもこの清い勝利を血でけがさずにおいてくれたわい」という賛辞が送られる一方、(ラスボスである)アルブレヒト帝を殺害した甥のシュヴァーベン公ヨハネスに対しては、もう、畜生にも劣るみたいな激しい批難が(それも、同じ殺人を犯したテルの口から)浴びせられる。

そして、唯一の例外とされるのがテルによるゲスラー殺しであり、それは「わが子の頭を的にしたような人間なればこそ、かたきの心臓に射あてることが出来るんだ」という彼本来の無辜性と、家族を守るための必要性という二つの理由から“やむにやまれぬ行為”として許容される。おそらく、当時のスイスの民衆も同じ理屈によって自分たちの抵抗を正当化したかったのだろう。

ということで、某サイトにおける高評価のとおりとても面白い作品であり、「筋が三つ(=独立運動とテルの苦悩、それにシラーが創作したらしいロマンス)もあって緊密さを欠いてはいる」という解説の批判は不当。特に、魯迅の言う「しばらく無事に奴隷になれる時代」を明確に否定したテル父子の会話は、読んでいて目頭が熱くなるくらい印象的でした。