魯迅

竹内好が出征直前の1943年に執筆した彼の処女作。

久しぶりに竹内好の文章を読んでみたくなったのだが、困ったことにどの本を読めば良いのか分からない。正直、魯迅に関しては文庫本一冊きりの知識しかない故、内容についていけるかちょっと心配だったのだが、まあ、本書が著者の代表作の一つなのは間違いないところであり、読んでみて損はないだろう。

さて、本書は、序章と結語を含めて全部で6つのパートから構成されているのだが、最初の【序章】でいきなり「魯迅の小説はまずい」と唯一の手掛かりを否定されてしまい茫然自失。しかし、「私は、魯迅の文学を…強いて云えば、宗教的な罪の意識に近いものの上に置こうとする立場に立っている」という一文に出逢い、俄然、この「罪の意識に近いもの」の正体を知りたくなってくる。

それは、次章の【伝記に関する疑問】の「(魯迅の)伝記に関する興味も…彼の生涯のただ一つの時機、彼が文学の自覚を得た時機、云い換えれば死の自覚を得た時機が何時であったかが問題である」という文章や、【思想の形成】における「贖罪の文学」という言葉にも関係するらしいが、そのネタばらしは結語の前に置かれた【政治と文学】まで待たなければならない。

そこで指摘されているのは、1926年3月の北京で起きた「三一八」事件が魯迅に与えた影響であり、多くの学生たちが生命を失うという悲惨な出来事に「絶望」を感じた彼は「(復讐という)一時の快を貪る代りに、生涯の受苦で償おうと決意」したのではないかというのが著者の考え。(正確に言うと、罪の原因はこのほかにもあるらしい。)

そのときの魯迅の心境を表していると思われるのが「絶望の虚妄なることは正に希望と相同じい」という血を吐くような言葉であり、それは同時に戦中・戦後の苦難な時期を生き抜いた著者の心の支えでもあったのだろう。このことからも分かるとおり、本書から浮かび上がってくるのは、魯迅というより、彼の中に自分の生き方を見いだそうと藻掻く著者自身の姿であり、そういった意味でもなかなか興味深い一冊だった。

ということで、本書で紹介されている魯迅の言葉の中で面白かったのは、これまでの中国には「奴隷になろうと思ってもなれぬ時代」と「しばらく無事に奴隷になれる時代」しかなかったというもの。その上で「この中国歴史上かつてなかった第三の時代を創造することこそ、現代の青年の使命である」と続けているのだが、これは現在の我が国にも当てはまりそうな言葉です。