言葉と物 −人文科学の考古学−

ミシェル・フーコーが1966年に発表した彼の代表作の一つ。

学生の頃に背伸びをして読んでいた雑誌「現代思想」では度々紹介されていたものの、彼の著作を直に(?)読むのは今回が初めて。難解という前評判どおり最後まで読み通すには相当の労力が必要であり、正直、内容的には半分も理解できていないと思うが、まあ、学生時代とは異なり試験やレポートの心配をしなくて済むのが有り難い。

さて、“人文科学の考古学”という副題が示すとおり、内容はルネサンス以降の西欧思想に起こったエピステーメー(=具体的な説明は無いが、“知の枠組み”といったような意味らしい。)の2度の変化を解き明かそうというものであり、具体的には古典主義時代と近代とがそれらに該当するらしい。

ルネサンス末までの西欧思想を支配していたエピステーメーを代表するキーワードは“相似”であり、言語を含む世界中のすべての外徴が「開かれた大きな書物のようなものになる」という指摘はとても刺激的。直接の言及は無いものの、星の動きから物事の吉兆を読み取る占星術や聖書に関する厖大な注釈書の類いを想起すれば、この主張に異論は無い。

このような状況を一変させた古典主義時代のエピステーメーが“表象”であり、外徴と似てはいるものの、こちらは物事の間に相似を見いだそうとして妄想をたくましくするのではなく、客観的な観察によってその同一性と相違性を明らかにし、その結果を表(タブロー)の形にまとめ上げようとする。

フーコーは、このような変化を一般文法、博物学そして富の分析という三つの分野ごとに丁寧に解説してくれるのだが、それらは19世紀初頭に姿を現した近代のエピステーメーによって言語学、生物学そして経済学へと生まれ変わる。それは“表象”といった目に見えるものからの解放であり、言語のメカニズムや生物の機能、富の尺度としての労働といった目に見えないものに主役の座を譲り渡す。

そしてそれらの主体として登場したのが“人間”であり、彼によれば「知にとっての客体でもあるとともに認識する主体でもある」ところの人間は18世紀末以前には実在しなかったらしい。それにもかかわらず、「われわれは、最近あらわれたばかりの人間というものの明白さによってすっかり盲目にされてしまっているので、世界とその秩序と人々が実在し、人間が実在しなかった、それでもそれほど遠くない時代を、もはや思い出のなかにとどめてさえいない」とのこと。

正直、このへんに関して記述されている第9章は本書の中でも最も難解な部分であるが、最後の第10章では心理学や社会学、文化史等といった近代以降の人文諸科学を批判的に取り上げた後、「人間のそとにあって、その意識にあたえられるものは何か、その意識を逃れるものは何か」を探ろうとする文化人類学精神分析、そして言語学に近代を超克する方向性(?)らしきものを見いだそうとする。

勿論それが何かはまだ分からないが、おそらく近代が“表象からの解放”であったのと同様、“人間からの解放”に繋がるはずのものであり、それが実現されたとき「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」という予言めいたフーコーの言葉でこの分厚い書物は幕を下ろす。

ということで、なかなか骨の折れる内容であったが、彼の散文詩のように美しい文章のおかげもあって何とか読了することだけは出来た。また、ボルヘスセルバンテス、サドの文学作品を効果的に取り上げてくれているのも大きな魅力であり、特にベラスケスの「侍女たち(ラス・メニーナス)」の解説は非常に興味深いものでした。