1946年作品
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ 出演 フランコ・インテルレンギ、リナルド・スモルドーニ
(あらすじ)
親友同士のパスクアーレ(フランコ・インテルレンギ)とジュゼッペ(リナルド・スモルドー二)は、終戦後間もないローマ市内で靴みがきをしながら逞しく生きてきた。彼等には乗馬用の馬を購入するという夢があり、その資金を稼ぐため、ジュゼッペの兄の指示に従ってある家に毛布を売りに行くが、これが結果的に窃盗事件の片棒を担いだことになってしまい、警察に逮捕された二人は少年院に入れられてしまう….
デ・シーカによるイタリアン・ネオレアリスモ映画の名作。
要するに彼等はジュゼッペの兄の一味に利用されていただけなんだけど、身内を密告する訳にもいかず、兄貴分であるパスクアーレの指示どおり二人は警察の尋問に対して黙秘を貫き通す。しかし、少年院の所長の仕掛けた卑劣なトリックにひっかかったパスクアーレは、思わず真犯人の名前を喋ってしまい、それを知ったジュゼッペとの友情にヒビが入ってしまう。まあ、見る前からある程度覚悟はしていたが、いかにもネオレアリスモらしい悲惨な展開。
パスクアーレは戦争孤児であり、一方のジュゼッペには両親はいるものの、子供に生活費をねだるようなどうしようもない親。そんな二人に必要なのは安心して暮らせる場所であり、少年院なんかじゃないことは明白な訳であるが、残念ながら本作に登場する大人たちには彼等の幸せを思いやれるような余裕は全く感じられない。
結局、二人の友情は修復されることのないまま最悪の結末を迎える訳であるが、まあ、映画的にいえばジュゼッペが少年院を脱走してから以降のエピソードは蛇足であり、ネオレアリスモにしては“出来すぎ”の感が強い。あんな劇的な結末は付けないで、二人が裁判で実刑判決を受けるところで終わりにしておけば観客に対してより強い印象(=やりきれなさ)を与えられた筈であり、おそらくその反省が2年後の傑作「自転車泥棒(1948年)」として実を結んだのではないだろうか。
ということで、本作は小津の「長屋紳士録(1947年)」とほぼ同時期の作品になる訳であるが、“世知辛さ”の点から言えば小津の作品は本作の足元にも及ばない。しかし、「長屋紳士録」のラストに登場する大勢の浮浪児たちの暮らしぶりがパスクアーレやジュゼッペに比べて楽だったとは考えられず、単に小津は(モチ屋らしく)それを正面から描くのを避けただけなのかも知れません。