11月のメモ

【11月の日常】
◯コロナ禍のディズニーランド、再び(11月4日)
コロナの状況が落ち着いてきたので昨年10月以来となる東京ディズニーランドへ。大混雑のオンライン予約には苦労させられたがが、例によって妻&娘のハリキリぶりは尋常ではなく、昨日のうちに東京ベイ舞浜ホテルに“前乗り”してインパ当日を迎える。
さて、ショー関係の抽選はすべて外れてしまったが、アトラクションの方はスタンバイパスなるものをスマホで取得すれば一応乗り放題位であり、初体験の“ベイマックスのハッピーライド”をはじめ“美女と野獣 魔法のものがたり”、“バズ・ライトイヤーアストロブラスター”等々を楽しむ。お気に入りの“スター・スターズ”では新プログラムが始まっていた。
そんな中で一番楽しかったのはこれも初体験となる“ミニーのスタイルスタジオ”であり、次回以降、我が家の定番の一つになるかもしれないなあ。

劇団四季オペラ座の怪人」(11月27日)
帝劇の「ラ・マンチャの男」以降、実に2年ぶりとなるミュージカル鑑賞。
演目は名曲揃いの傑作であり、正直、劇団四季のお手並み拝見的な気持ちで拝見させて頂いたのだが、演出、歌唱力、舞台美術等々、どれをとっても十分満足できる内容であり、家族揃って大感激。来年見に行く予定の「アナと雪の女王」がとても楽しみになった。


【11月に読んだ本】
吉里吉里人(井上ひさし
分厚い文庫本3冊からなる長編であり、海外のSF小説であれば銀河帝国の興亡を記述するのに十分なボリュームであるが、本作で描かれているのは吉里吉里国の独立から滅亡までのたった二日間の出来事。まあ、それだけ濃密といえば良いのかもしれないが、正直、独立とは無関係な作者の薀蓄が述べられている箇所も少なくはなく、そもそも“国家とは何か”という問題意識が希薄なところが物足りない。

◯イエスという男(田川建三
“神を信じないクリスチャン”を自称する著者の作品であり、時代の先行者、反逆者であったイエスの言葉の持つ意味を後世のキリスト教流解釈から切り離した形で解き明かしていく。例えば、「人の家に招かれて飲んだり食ったりわいわい楽しくやるのがひどく好きだった」というイエスの説く“清貧”を、「貧しい者は貧しいまんまとどまっている方が幸いなのです、と説教してしまったのでは、貧しい者が踏みつけにされる社会は改まらない」としてキリスト教の果たしてしまった役割を批判しているのがその典型。どうやら「原始キリスト教全般がイエスの頭をとびこして、洗礼者ヨハネの発言ややり方をおのれの宗教儀礼や宗教思想としてとりこんでいった」らしい。


【11月に見た映画】
◯エターナルズ(2021年)
「シャン・チー(2021年)」と並び映画版MCUフェーズ4の幕開けを告げる作品なのだが、これまでの作品群とは異なり、かなりSF的なストーリーになっている。また、監督を努めたクロエ・ジャオの趣味なのか、同性愛者や聴覚障碍者をヒーローチームの一員に加えているところも興味深い。“ちょっと詰め込みすぎ”といっていた娘もローレン・リドロフ扮するマッカリはお気に入りのようであり、今後のご活躍を期待したい。


【11月に歩いた山】
萬蔵山(11月14日)
萬蔵山入口(8時50分)~林道横断(9時5分)~白糸の滝(9時10分)~雲光教寺(9時18分)~萬蔵山(9時39分)~下山開始(10時9分)~雲光教寺(10時24分)~林道横断(10時34分)~萬蔵山入口(10時48分)
困ったときの栃木百名山ということで、これまで歩いたことの無かったこの山を選択。あわよくば里山の紅葉見物をと期待していたのだが、赤く色付いていたのは登山口の楓一本だけであり、あとは薄暗い樹林帯の中を歩いて一時間足らずで山頂へ。相当物足りない山歩きとなったが、帰路に立ち寄った高橋商店の鮎の甘露煮等が(相変わらず)とても美味しかったので、まあ、良しとしましょう。
f:id:hammett:20220211082817j:plain

10月のメモ

【10月の日常】
◯名画でたどる西洋絵画400年(10月30日)
県立美術館の企画展は一般庶民には敷居の高いものが多いのだが、今回はルノワールゴッホ等々、我々にも親しみのある画家の作品が多数含まれているということで数十年ぶりに家族で足を運んで見る。ちなみに娘は初訪問かもしれないとのこと。
展示は、風景や肖像画といったジャンルごとに年代順に並べられているため、ルネサンスからポスト印象派に至る描写手法の変化をひと目で理解できるところが有り難い。市立美術館との棲み分けといった問題もあるのだろうが、今後もこういった分かりやすい内容の展示を数多く企画して欲しい。
なお、帰りがけに美術館近くに開店した“QUON”というチョコレート専門店に寄り道。こちらが本命だったらしい娘は大喜びだったが、庶民としての俺の好みからすると味がちょっと複雑すぎるような気がした。


【10月に読んだ本】
空海(髙村薫)
作者の仏教に関する造詣の深さは「太陽を曳く馬」等の過去作からも十分承知していたが、本作は小説というスタイルから一歩抜け出した形で空海の実像に迫ろうとした異色作。特に、あくまでも論理にこだわろうとする最澄等の顕教に対し、論理を飛び越えた神秘体験を重視するところに空海密教の本質を見出すという視点は俺のような初学者にも理解しやすいものであり、とても面白かった。

◯機械としての王(ジャン・マリー・アポストリデス)
太陽王と呼ばれたルイ14世の治世を生き生きとした文章で綴った名著であるが、それ以上に、民主主義の真逆に位置すると考えていた彼の絶対主義王制が実は民主主義の鏡像というか、少なくともその形式的な礎となっていたという指摘に吃驚仰天。「18世紀になると、ブルジョワジーは想像的身体のもっとも重要な機関をどんどん占領してゆき、ついには国王の現実の身体をそこからはじき出してしまう。…人はもはや彼に近づくことはできない。ただ、彼のイメージを作り、コントロールする行政機構と接触を持つことができるだけである」という記述は、戦後の自民党政権が目指してきた象徴天皇制にもピッタリ当てはまってしまうのだろう。


【10月に見た映画】
◯007/ノー・タイム・トゥ・ダイ(2020年)
ダニエル・クレイグジェームズ・ボンドの最終作になる作品であり、う~ん、やっぱり最後はハッピーエンドにならなかったんだなあ。ラミ・マレック扮する敵役の年齢設定の曖昧さがやや気になったが、まあ、その点を除けば十分及第点は差し上げられるだろう。


【10月に歩いた山】
◯高原山で紅葉狩り?(10月24日)
大間々駐車場(8時4分)~大丸(8時48分)~ミツモチ(9時13分)~八海山神社(10時48分)~下山開始(11時9分)~大間々駐車場
持病の腰痛の再発により那須以北の紅葉の適期は逸してしまったが、何とか回復したので再始動。日光にも未練はあったが早起きを嫌う妻に遠慮して高原山を選択する。
紅葉狩りを目当てにこの山を歩くのは初めてのことであり、出たとこ勝負でミツモチ経由のルートを歩いてみたが、時期が早かった(?)せいか、ほとんどそれらしき景色は見当たらない。八海山神社のところから眺めた釈迦ヶ岳の裾野はそれなりに色付いていたが、赤味が足りないのが物足りない。
ちなみに、帰路、見慣れないラーメンの幟に導かれて「熊さんの村」なるお店に立ち寄ってみたが、道が狭いので車のすれ違いに四苦八苦。正直、そこまでして食べに行く味ではなかったと思う。

◯八丁出島を上から下から(10月31日)
歌ヶ浜駐車場(6時12分)~狸窪(6時49分)~半月峠(7時50分)~半月山展望台(8時21分)~半月峠(8時57分)~狸窪(9時47分)~八丁出島の途中(9時56分)~歌ヶ浜駐車場
先週の高原山が空振りだった故、やっぱり妻に早起きをお願いして日光へ向かう。午前6時頃に着いた歌ヶ浜駐車場は早くもほぼ満車状態だったが、幸い第2駐車場の方にはまだ空きがあった。
お目当ての紅葉の方もまだ見頃を保っており、思ったより人の少ない展望台から八丁島の景観を楽しむ。狸窪まで下山した後、戯れに八丁島に立ち寄ってみたが、当然、紅葉は中からより外から見たほうが美しい訳であり、途中で引き換えして早々に帰途につく。いろは坂からの紅葉もとてもきれいだった。

9月のメモ

【9月に読んだ本】
◯日本人のしつけは衰退したか(広田照幸
教育史論には“自分たちの受けた教育が真っ当”というような身贔屓を感じさせるものが多いが、本書は極めて論理的な内容であり、正直、初めて納得できる教育論に出会ったという印象。特にしつけの基本には“子どもの自立を促進しよう”とする意図と、それと矛盾する“権威に従順な人間に育てよう”という目的が含まれているという指摘は重要であり、まあ、最初っから完璧なしつけなんかあり得ないということが良く理解できた。

◯G.K.チェスタトン著作集3 自叙伝
一般的な自叙伝とは相当異なった内容を有する作品であるが、これはこれなりにとても興味深い内容。“所有権の否定”というちょっと理念的、仮想的すぎる社会主義に馴染むことが出来ず、“愛国心”というより実感を伴った保守主義を選択するというのは、やや著者の“所有権”に対する理解が皮相的だったような気がするものの、彼の愛国心は、政治的に対立する相手方の愛国心も尊重する(=したがってアイルランド独立運動を支持する。)というものであり、偏狭な敵味方論とは全くの別物であるところがいかにも彼らしい。


【9月に見た映画】
◯シャン・チー/テン・リングスの伝説(2021年)
本作のストーリー、アクションも良いけど、新しい MCUの本格的始動が感じられるところが何より素晴らしい。次の「エターナルズ」もとても楽しみ!


【9月に歩いた山】
◯井戸湿原散策(9月20日
前日光ハイランドロッジ(7時47分)~横根山(8時5分)~五段の滝(8時37分)~象の鼻(9時33分)~下山開始(9時59分)~前日光ハイランドロッジ(10時24分)
横根山へは何度か訪れているが、妻と一緒に象の鼻からの絶景を眺めるのは今回が初めて。天気も快晴だったが、五段の滝のところで思はぬアクシデント(?)発生。まあ、ここに書かなくても記憶には残ると思うので詳細は割愛します。

◯加仁湯から鬼怒沼(9月26日)
加仁湯(5時43分)~日光澤温泉(5時57分)~オロオソロシの滝展望台(7時6分)~鬼怒沼(8時50分)~鬼怒沼巡視小屋(9時7分)~下山開始(9時47分)~オロオソロシの滝展望台(11時30分)~日光澤温泉(12時27分)~加仁湯(12時41分)
妻と一緒に昨日のうちに夫婦淵駐車場から加仁湯まで歩き、準備万端整えて鬼怒沼へ向かう。天気は快晴とまではいかなかったが、日光澤温泉の少し先ではカモシカの出迎えを受けることも出来、まずは上々のスタート。滝展望台までの急登はちょっと大変だが、しばらくすると傾斜は徐々に緩んでいき、約3時間かけて鬼怒沼に到着。ようやく妻に我が国で一番高いところにある高層湿原の景色を見せることが出来た。
帰りは加仁湯の露天風呂で汗を流し、マイクロバスに乗って夫婦淵駐車場へ。当初は日帰りも考えたが、やはり加仁湯に前泊したのは大正解であり、とても楽しい山歩きになりました。

8月のメモ

来月から再就職が決まってしまった故、ブログを書く時間の確保が難しくなりそう。そんな訳で毎月末に簡単な備忘録を残しておこうと思う。

【8月に見たDVD】
◯シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(2021年)
それ程の内容とは思わないが、まあ、なにはともあれ無事完結したのはオメデタイことなんだろう。

◯ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ(1998年)
ガイ・リッチーのファンである娘と一緒に見たのだが、脚本もなかなか良く出来ており、とても面白かった。

◯ガーンジーン島の読書会の秘密(2018年)
とにかくリリー・ジェームズがとても美しくて可愛らしいので大満足。でも、離島にあんな洗練された美男子が埋もれているのはちょっと納得できないかなあ。

夏の終りの三本槍岳

本当は一泊二日の予定で妻と涸沢へ遊びに行くつもりだったのだが、県内にもコロナの緊急事態宣言が出されてしまった故、予約していた涸沢ヒュッテを泣く泣くキャンセル。まあ、その代わりということで妻と歩くのは約一年ぶりとなる三本槍岳に行ってきた。

出発(8時23分)~峰の茶屋(9時9分)~朝日の肩(9時52分)~熊見曽根(10時7分)~1900m峰(10時14分)~清水平(10時29分)~北温泉分岐(10時41分)~三本槍岳(11時18分)~下山開始(11時45分)~北温泉分岐(12時16分)~清水平(12時31分)~1900m峰(12時50分)~熊見曽根(13時6分)~朝日の肩(13時15分)~峰の茶屋(14時3分)~駐車場(14時44分)

天気はまずまずだったが、山頂では北方面に雲がかかっており、360°の絶景とならなかったのがやや残念。それでも大きく膨らんだリンドウの蕾やススキ等々、初秋の訪れを感じながら歩くのはなかなか爽快であった。涸沢訪問は来年の宿題にしておきましょう。

『市民ケーン』、すべて真実

古典的名作「市民ケーン(1941年)」の製作過程を明らかにしたロバート・L.キャリンジャーの本。

勿論、本書を手にしたのは「Mank/マンク(2020年)」を見たことがきっかけであり、「市民ケーン」の脚本を書いたのは誰かという謎を解明するのが第一の目的。その謎を取り扱っているのが「第2章 誰が脚本を書いたのか?」であり、保存されていた初稿から第7稿までの脚本を読み比べることによって.マンキウィッツとウェルズのどちらの貢献がより大きかったかを明らかにしていく。

それによるとマンキウィッツによる第1稿は主人公のモデルになった「ハーストの生涯における様々な逸話に物語的な脚色を加えて並べただけのもの、という印象が拭いきれない」という代物だったそうであり、正直、著者は「必ずしも一流の脚本家ではなかった」、「集中力に欠ける脚本家」というようにマンキウィッツのことをあまり高く評価していない。

一方、ウェルズに関しては「この土台の上に立ち、映画文法の輝きを加えた…ハーストの薄っぺらなフィクション化に過ぎなかったケーンを、謎に満ち、人間性の深淵を秘めた巨人へと描きなおした」と最大級の賛辞を送っているのだが、その一方でそれが彼の「全作品中でもっとも力強い物語構造、もっとも完成された人間描写、そしてもっとも丁寧に書かれた台詞がある」のはマンキウィッツの貢献によるものとしており、結局、作品のクレジットのとおり“共同脚本”というのが最も実態をよく表しているようである。

そして、この「共同作業」というのが本書の最大のキーワードであり、続く第3章では美術監督のペリー・ファーガソン、第4章では撮影監督のグレッグ・トーランド、そして第5章ではポストプロダクション担当のリンウッド・ダン、ジェームズ・G.スチュアート、バーナード・ハーマンといった具合に、多くの技術者の協力が「市民ケーン」の成功に大きく寄与しているとしている。

何と言っても、「市民ケーン」はウェルズの初監督作品であり、いくら天才といえども多くの技術者の助力なしには映画を撮り終えることは不可能であり、本書を読んでいると映画作りという「巨大なおもちゃの機関車」を前にした生意気な子どもが周囲の大人たちに我儘を言ったり、窘めれられたりしながら一本の作品を作り上げていく様子が目の前に浮かんでくるようである。

一方、最終章で紹介されている「偉大なるアンバーソン家の人々(1942年)」の失敗(?)の原因は、とりあえずの成功によって自信過剰になったウェルズが「共同作業」の重要性を軽視したせいであり、「その後の彼は二度とハリウッドのメジャー・プロダクションを自分の望んだ形で任されることはなく、1942年の夏以降、その生涯をハリウッドでもっとも有名な不可触賤民として過ご」すことになってしまう。

ということで、撮影監督のグレッグ・トーランドの貢献についてはこれまでも様々な文章で目にしてきたが、「完成された映画全体の50パーセント以上の部分には、なんらかの特殊効果が用いられているという報告もある」というのは初耳であり、これまで驚異的なカメラワークの成果だと思って見ていたシーンも、実は特殊効果によるものだった可能性があるのかもしれません。

なぜ日本は没落するか

経済学者の森嶋通夫が1999年に発表した著作。

宇沢弘文と並ぶ数理経済学の泰斗の著作ということで、日本経済の根本的な問題点を鋭く指摘した内容なのだろうと思って手にしてみたのだが、意外にも本書で検討の俎上に載せられているのは我が国の政治の問題であり、その理由は「日本が没落するのは、今度の場合も明治維新の時と同様、政治からである」から、ということになるらしい。

その要因には様々なものが考えられるのだが、最も決定的なのは「政治的イノベーションの欠如」であり、日本列島改造論を唱えた田中角栄とその後を引き継いだ三木、福田、大平まではある程度その重要性を理解していたものの、「竹下以後日本の政治家は、新しいプログラムを案出してそれを実現して、全国民の利得をより大きくするという政治のあるべき姿…をすっかり忘れ去っ」てしまう。

それが許されたのは「そういうことをしなくても彼ら(=政・財・官)のうち二つが結託することによって両者が充分利益を上げることができるから」とのこと。誠に残念なことながら、「リクルート事件がそういう最初の動きであった」という指摘は慧眼と言わざるを得ず、それから20余年後の我が国の現状を見事に言い当てている。

また、かつての学生運動に「背を向けて、そのあと全てに無関心になった」という大多数の学生たちの成れの果てである「世代がデモクラシーを育むことはありえない。彼らは選挙で投票することはないであろうし、政府の経済運営に反対することもないであろう」という予測も正しかったようであり、社会の不正義に対して非難の声をあげようとしない「無気力な『土台』が続く限り、日本は没落を止めることができないであろう」と主張する。

このような没落を避けるための「ただ一つの救済策」として著者は「東北アジア共同体案」というアイデアを提唱しており、仮にそれが真剣に検討されていれば現在のような中国の覇権主義的傾向を少しでも修正できていたかもしれないのだが、残念ながら今となっては完全な時代遅れ。「日本経済は、戦後―戦前もある段階までそうだったが―を通じ戦争とともに栄えた経済である。没落しつつある場合にはなりふり構わず戦争に協力するであろう」という予言が外れることをただ祈るばかりである。

ちなみに、本書には現在の格差社会を予感させるような記述はほとんど見当たらないが、執筆時期が小泉内閣の成立前であることを考えれば、まあ、やむを得ないところだろう。一方、歴史修正主義の危険性に対してはいち早く警鐘を鳴らしており、本書の最終章の結びでは「『新しい歴史教科書をつくる会』は間違っている」と、1996年に結成されたばかりのその団体を明確に否定している。

ということで、教育の現場にも近かった著者は、当然、「教育の荒廃」にも言及しているのだが、そこで主張されている大学進学率の抑制、生徒の選別等については、(一部の?)大学の専門学校化によってある程度実現していると言えるのかもしれない。しかし、それが真に能力の高い人間の選別になっているかは大いに疑問であり、世襲社会を再生産し続けるための方便に成り下がってしまう危険性さえ秘めているような気がします。