時の面影

2021年
監督 サイモン・ストーン 出演 キャリー・マリガンレイフ・ファインズ
(あらすじ)
第2次世界大戦前夜の英国。幼い頃から考古学に興味のあった未亡人のプリティ(キャリー・マリガン)は、自分の所有地内にある古い塚の発掘を素人考古学者のバジル・ブラウン(レイフ・ファインズ)に依頼する。最初の頃は地元の博物館も興味を示さなかったが、独学とはいえ長い経験と豊富な知識の持ち主であるブラウンは、塚の底から大きな船の遺跡を掘り出すことに成功し、それを知った大英博物館が動き出す…


最も有名な英国の考古遺跡の一つである“サットン・フーの船葬墓”の発掘の経緯を描いたNetflixf映画。

予備知識は全く無かったのだが、主演のお二人に加え、リリー・ジェームズまで共演で花を添えているとあっては無視することは不可能。そんな訳で早速拝見させて頂いたのだが、結果は大成功であり、英国映画らしい美しい映像としっとりとした情感に溢れたなかなかの佳品であった。

さて、ブラウンの的確な推理と判断によって塚の発掘はほぼ順調に進むのだが、その成果を聞きつけた大英博物館が突然介入してくるところから状況は一変。政府の命令によって発掘の主体は本物の考古学者であるフィリップスの元へと移ってしまい、一時は離脱を決意したブラウンは周囲の説得によってフィリップスの下で働くことになる。

結局、ブラウンの推理どおり、その遺跡はバイキングよりも古いアングロ・サクソン時代のものであることが判明し、世紀の大発見ということになるのだが、プリティが出土品を大英博物館に寄付する際の条件に“ブラウンの功績を明示すること”という一文を付け加えたことによって問題は無事解決。その後も色々あったらしいが、現在は大英博物館に彼の名前がきちんと表示されているとのことである。

一方、プリティは重い心臓病を患っており、まだ幼い一人息子のロバートを残してこの世を去らなければならないことを恐れているのだが、そんな彼女の死の不安を和らげてくれたのが“洞窟の壁に残された手の跡のように我々はずっと続いている”というブラウンの言葉。夜間、プリティとロバートが船の遺跡に寝そべって、星を眺めながら宇宙の旅を夢想するシーンはとても美しい名シーンだと思う。

ということで、リリー・ジェームズが扮しているのは夫と一緒にフィリップスの下で働く若き考古学者ペギーなのだが、正直、彼女とプリティの従弟との不倫話は本作のテーマに相応しいとは全く思えない。ちょっと残念ではあるが、同じくNetflixで見られる「ガーンジー島の読書会の秘密(2018年)」では彼女が主演を努めているようであり、そちらでの活躍に期待したいと思います。

「線」の思考

“鉄道と宗教と天皇と”という副題が付けられた原武史の本。

鉄道好きとしても知られる著者が2018年6月号から20年6月号まで8回にわたって「小説新潮」に連載した文章がベースになっており、タイトルにある「線」というのは主に鉄道の路線のことを意味している。簡単に言ってしまえば、オジサンの“乗り鉄”がその旅の様子を記した紀行文のようなものであり、話題が“宗教と天皇”に特化しているところが著者らしいところかな。

まあ、そんな訳で内容はそれほど重いものではなく、サラッと読めてしまえるところが大きな特徴。一応、8つの文章ごとに一定のテーマが設定されてはいるものの、最初の「小田急江ノ島線カトリック」では“聖園女学院の創立者とも言うべき聖園テレジアの名前が、近時、学校の広報誌等から抹消されてしまったのは何故か”という謎が不明のまま放置されており、全体的にあまり突っ込んだ検討はなされていない。

また、最後の「聖母=ショウモから聖母=セイボへ」では、昭和天皇が1949年に「長崎の原爆で親を失った孤児たちの養護施設」である聖母の騎士園を訪問した際、「聖母マリアと一体化したかのように…『母』として園児たちに愛情を注ぐことに熱中した」のではないかという著者の推測が述べられているが、説得力は希薄であり、思い付き以上のものとは思えなかった。

ということで、本書を読んでいる際、NHKで放映されている「ブラタモリ」のことを何度か思い浮かべてしまったのだが、正直、この程度の内容であれば本で読むよりも映像で楽しんだほうがずっと快適そう。「線」を鉄路に限らなければネタは無尽蔵にあると思うのだが、TVの皇室タブーに抵触するする恐れがあるところがちょっと障害になるかもしれません。

岩手旅行(第2日目)

今日は、世界遺産に登録された平泉の中尊寺周辺を見学してから帰宅する予定。

昨日の雨は朝方までパラついていたが、朝風呂&朝食を済ませているうちにほとんど上がってしまい、妻の運転するレンタカーに乗って平泉へと向かう。朝が遅かったので中尊寺に着いたのは10時半頃になってしまったが、町営駐車場にはまだいくらかスペースが残っていたようであり、そこに車を駐めて徒歩で月見坂を上がっていく。

初めて訪れる娘のガイド役を買って出たいところだが、俺がここを訪れたのは30年以上昔のことであり、当時の記憶はほとんど残っていない。それは妻も同様らしく、「こんなに歩いたかしら」と話しながらようやく本堂に到着。なかなか立派な伽藍ではあるが、1909年に再建されたものということで有り難みはやや希薄かな。

本命の金色堂に入るためには讃衡蔵のところにある窓口で拝観券を購入する必要があり、そのまま進んでまずは讃衡蔵を見学。ここは中尊寺の宝物館であり、内部には平安後期の仏像や様々な美術品が多数展示されている。その後、いよいよ金色堂に向かうが、金ピカの仏像等は古いのか新しいのか直感的に判断することが出来ず、正直、もう少しハゲチョロにしておいたほうが有り難みが増すのではなかろうか。

これでノルマは一応達成であるが、せっかくなので経蔵~旧覆堂等を見学してから境内の一番奥にあるかんざん亭でスイーツを味わいながら一休み。その後、立派な能楽堂や往路でスルーしてしまった地蔵堂、弁慶堂等にお参りしながら駐車場まで戻ってくる。予定では次に義経堂に立ち寄ることにしていたが、中尊寺で予想以上にスタミナを消費してしまった故、そこはパスして毛越寺に向かう。

ここの見所は「仏の世界を地上に表現したと伝わる浄土庭園」であるが、ほとんどの伽藍は焼失したままになっており、往時の壮麗さをイメージするには相当の想像力が必要。礎石等は残っているので一つずつ再建していけば百年後には立派な観光資源になるだろうと考えながら池の周囲をのんびり散歩した。

さて、最後の目的地は妻からリクエストのあった厳美渓。名物の「かっこうだんご」には長い行列が出来ていたため途中で挫折してしまったが、本来の見所である渓谷美の方はなかなかのものであり、観賞後、冷房の効いたレストハウスで昼食を食べてしまえば今回の旅の予定はすべて終了。レンタカーを返却し、一本早い新幹線に乗って無事帰宅することが出来た。

ということで、個人的には宮沢賢治に対する興味が一段と強まったところが今回の岩手旅行の最大の収穫であり、(昨日も書いたとおり)今度は彼が愛したという岩手山を妻と一緒に歩いてみたい。全山紅葉で有名な栗駒山と一緒に歩けたら理想的なのだが、う~ん、山歩きばかりでは妻の了解を得るのがちょっと難しくなるかもしれません。

岩手旅行(第1日目)

今日は、妻&娘と一緒に一泊二日の日程で岩手旅行に出発する日。

東京オリンピックとの関係で今年も祝日が変則的になっており、海の日、スポーツの日に土日を含めて今日から四連休。趣旨からすれば明日に迫った開会式をおとなしくTVで観ていれば良いのだろうが、多くの声を無視して強行されるオリンピックを素直に歓迎することは困難であり、代わりに昨年来我が家の恒例行事になりつつある東北旅行に出掛けることに決めていた。

さて、午前8時過ぎの新幹線を利用して10時半頃に新花巻駅に到着。娘のリクエストにお応えして最初の目的は“冷麺”であり、予約しておいたレンタカーに乗って「カフェレストランきゃびん」というお店に向かう。食事の注文は11時以降ということで、店内でコーヒー等を飲んで少し時間を潰してからわさび冷麺(俺)、風の冷麺(妻、つけ麺)、花巻冷麺(娘)を注文する。

俺が頼んだわさび冷麺はここの名物であり、大量のわさびが付いてくるのだが、お店の人の話では全部投入する必要はないそうであり、半分くらいスープに溶かし込んでから食べてみるとこれがなかなかの美味。妻&娘が注文した冷麺の味も上々ということで、まずは順調な旅のスタートを切ることができた。

今日の観光のメインは宮沢賢治記念館であり、それはちょっとした丘の上に建っている。展示内容は科学、芸術、宇宙、宗教、農の5分野に分かれていて、1896年生まれの賢治がハレー彗星(1910年)やアインシュタイン一般相対性理論(1918年)等に触発されて、科学や宇宙の分野に傾倒していった経緯がよく理解できるような展示になっている。

また、複製ではあるものの「雨ニモマケズ」の手帳を見ることが出来たのも大きな喜びであり、そこに記された彼の理想像は俺の想像するイエス・キリストのイメージにピッタリ。裕福な質・古着商の跡取りに生まれながら、37歳で亡くなるまで東北の貧農の救済に尽力したという彼の生き方にも強く共感できるところであり、今度、彼が信仰していたという日蓮宗についてもちょっと勉強してみようと思う。

退館後はレンタカーのキーを妻に託し、ポランの広場(南斜・日時計花壇)を見学しながら娘と一緒に丘の斜面を下りていく。道路沿いの駐車場で妻と合流すると、今度は少し疲れたという娘を車内に残して妻と一緒に二度目のポランの広場~イーハトーブ館。後者ではなかなか良く出来た「注文の多い料理店」のアニメを楽しむことが出来た。

次の「宮沢賢治童話村」は子供も楽しめる体験型の施設であり、少々物足りなくはあるものの、まあ、気晴らしにはちょうど良い。見学後、再びレンタカーに乗って羅須地人協会跡地~イギリス海岸を目指すが、残念ながら前者はコロナのために閉鎖中で車を止めることも出来ない。後者も「北上川水系のダム整備による河川管理が進み、水位が下がらなくなったため、泥岩層を見ることが難しくなってい」るそうであり、往時の面影を窺うことは出来なかった。

さて、イギリス海岸の駐車場に戻ってくるとにわかに雨が振り出してしまい、今日の市内観光はこれにて終了。本日の宿は花巻南温泉郷にある「山の神温泉 優香苑」という旅館であり、宮大工の手になる格天井が売り物らしいが、とにかく広々としていて隣室等の騒音が全く聞こえてこないところが有り難い。

ということで、食事中、宿のサービスで出された白ワインをガブ飲み(?)して珍しく酔っ払ってしまったが、まあ、隣席との間隔は十分確保されていたのでコロナ感染の心配はないだろう。布団に入り、今度は宮沢賢治が愛したという岩手山を妻と歩いてみたいなあと考えながら眠りに就きました。

切込・刈込湖で暑熱馴化?

今日は、妻と一緒に奥日光の切込・刈込湖周辺を歩いてきた。

ようやく梅雨が開けて夏山シーズン到来ということになったのだが、まだ体の方は夏の酷暑に対応できていない故、どこか近場で“暑熱馴化”をしてこなければならない。どちらもちょっと久しぶりということで社山か切込・刈込湖を妻に提案してみたところ、彼女が選択したのは後者であり、やっぱりねと思いながら午前7時過ぎに光徳駐車場に到着する。

身支度を整えて7時8分に出発。妻とこのルートを歩くのは3度目だが、山王峠へと続くダラダラした上り坂が年々キツくなるように感じられるのは老化のせいなのかしら。そんなことを考えながら山王峠(8時16分)~涸沼(8時42分)と歩いて9時45分に刈込湖に着くと、幸いそこに先客の姿は見当たらず、二人だけで開放的な気分を満喫。

しばらくすると後続者が現れたため10時14分に再出発。このコースはほとんどが日陰になるので暑熱馴化には不適だったが、まあ、汗をかかなくて済むのは有り難いことであり、小峠(10時57分)~金精道路(11時27分)と歩いて11時44分に東武バスの営業所に到着。ここまでの本日の総歩行距離は8.9kmだった。

ということで、政府の無為無策のせいもあってコロナ禍は早くも第5波に突入したようであり、感染者数が増加する中で東京オリンピックを開催するという最悪の事態になりそうな雰囲気。当然、山歩きの目的地選考においても少なからず支障にはなるが、まあ、昨年同様、あまり無理をしないで夏山シーズンを楽しみたいと思います。

詩人と狂人たち

G.K.チェスタトンが1929年に発表した短編集。

チェスタトンの作品であるということ以外、何の予備知識もなしに読んでみたのだが、内容は画家兼詩人のガブリエル・ゲイルを主人公とする8つの連作短編であり、最初の「風変わりな二人組」にはあまり謎解き的要素は見当たらないものの、全体的にはゲイルを探偵役にした“幻想ミステリ短編集”ということになるのだろう。

正直、ブラウン神父ものより「木曜日だった男」や「新ナポレオン奇譚」を好む当方の趣味からするとやや残念な結果ではあるが、ゲイル自身は「探偵小説の中で論じられるような実際的な問題では、警察に比べたら、僕なんか馬鹿みたいに見えるだろう」というキャラクターであり、探偵役としては相当“風変わり”な部類に属することになるのだろう。

そんな主人公が得意とするのは「実際的でない」分野であり、既に実態が実際的なことの領分を越えてしまったような「最悪の状況」で必要とされるのは、彼のような「実際的ではない人間」であるというのが彼の主張。事実、本作に登場する“犯人”たちはいずれも常識の範囲を飛び越えてしまった狂人ばかりであり、彼らの常識では理解し難い奇妙な行動を読み解くことができるのは、かろうじて狂気の一歩手前で踏み止まっているゲイルだけということになるらしい。

正直、この(ある意味)魅力的な設定が完璧に活かされているかというとちょっと首を傾げてしまうところもあるが、砂浜で刺殺された被害者の足元に残されていた一匹のヒトデから犯行のトリックを看破するという「鱶の影」の結末は、画家兼詩人という主人公ならではの名推理であり、絵画的なイメージのせいもあって本書中で最も印象に残る作品になった。

ということで、チェスタトンの最大の魅力はその修辞的な文章にある訳であるが、正直、就寝前にベットで横になって読んでいるとすぐに眠くなってしまうのが大きな難点。機会があれば図書館にある彼の著作集も読破してみたいと思っているのだが、そのためにはきちんと机に座って読む必要がありそうです。

ブラック・ウィドウ

今日は、妻&娘と一緒にマーベル映画の最新作「ブラックウィドウ」を見てきた。

本作もコロナ禍の影響で公開が伸々になっていた作品の一つであり、何はともあれ映画館のスクリーンで拝見できるようになったのは有り難い限り。しかし、問題なのは例のDisney+との関係であり、県内の劇場で公開してくれるのは足利と那須塩原の2館だけ。仕方がないので、映画鑑賞後のちょっぴり豪華(?)なランチで妻&娘の歓心を買うという一計を案じ、高速道路を使ってフォーラム那須塩原へと向かう。

さて、MCUにおける本作の時代設定は「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ(2016年)」の直後に位置付けられているそうであり、ソコヴィア協定違反で指名手配中のナターシャが、かつて自分も所属していたことのあるスパイ養成機関“レッドルーム”の総帥であり、以前、娘もろとも殺害したと思っていた仇敵ドレイコフとの最後の決着を付けるというストーリー。

面白いのは、彼の居場所を突き止めるために、少女時代にロシアのスパイとして米国オハイオ州で一緒に暮らしていた“疑似家族”のメンバーと再会を果たすところであり、母親役のメリーナ(レイチェル・ワイズ)と妹役のエレーナはともにレッドルームの卒業生。また、父親役のアレクセイの正体はロシアが生み出したスーパーソルジャー“レッド・ガーディアン”であり、本人の話によるとキャプテン・アメリカとも対決したことがあるらしい。

彼らとの共同生活は3年間に過ぎなかったが、本当の家族の温かみを知らずに育ったナターシャにとってみれば彼らは特別な存在であり、まあ、ザック・スナイダーが監督を務めていれば疑似家族内における愛憎入り混じった血みどろの死闘を見せてくれたのだろうが、本作を任された女性監督ケイト・ショートランドが採用したのはそれとは真逆のホームコメディ路線。

おそらく、このへんがマーベルの少々青臭い“理想主義”の現れなのだろうが、正直、個人的には大賛成であり、家族全員一人も欠けることのない最高のハッピーエンドは、コロナ禍の憂鬱な気持ちをきれいに一掃してくれる。特にエレーナ役のフローレンス・ピューは2代目ブラック・ウィドウにピッタリであり、今回、無事救出されたウィドウ集団共々、次期アベンジャーズ・シリーズで大暴れすることを期待したい。

ということで、妻&娘の評価も上々であり、結局、“一計を案じる”必要は全く無かった訳であるが、鑑賞後に再訪した「パパシュネル」のランチはやはり絶品。おかげで誠に充実した一日を過ごすことができたものの、正直、マーベルやピクサーを含むディズニー映画が公開される度に那須塩原まで足を運ぶのはちょっと大変であり、今後、“Disney+問題”が速やかに解決されることを強く望みます。