ゾディアック

2006年
監督 デヴィッド・フィンチャー 出演 ジェイク・ギレンホールマーク・ラファロ
(あらすじ)
1969年7月、カリフォルニア州バレーホで車内にいた若いアベックが拳銃で襲撃されるという事件が発生し、複数の新聞社に“ゾディアック”と名乗る犯人から暗号文付の手紙が送り付けられてくる。その後、事件は連続殺人事件に発展し、敏腕記者のエイヴリーやサンフランシスコ市警のトースキー刑事(マーク・ラファロ)が必死になって事件の解明に取り組むが、いっこうにゾディアックの正体は判明しない…


米国で実際に起きた連続殺人事件をテーマにしたスリラー映画。

どら平太(2000年)」のおかげで映画鑑賞を楽しむだけの心の余裕が残っていることが判明したので、今度はその限界を探るべくちょっと怖そうなデヴィッド・フィンチャー作品に挑戦。正直、何度かTV画面から目をそらしたくなるシーンも出てきたものの、まあ、何とか最後まで見続けることが出来たので、とりあえずは大丈夫だったみたい。

さて、ゾディアック事件の解明は遅々として進まず、期間が長引くに連れて記者のエイヴリー(ロバート・ダウニーJr.)やトースキー刑事といった有能な人材が次々に捜査現場から離れていってしまう。そして最後まで諦めなかったのが、エイヴリーと同じ新聞社で働いていた風刺漫画家のロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)であり、彼が1986年に出版した「Zodiac」という本が本作の原作になっている。

彼はトースキー刑事等の助言を得ながら独自の捜査を続け、ようやく一度は容疑者リストから除外されていたアーサー・リー・アレンなる人物が真犯人(=ただし、共犯者がいる。)である(らしい)ことを突き止めるのだが、公判準備中に彼が急死してしまったため、結局、事件は未解決のまんま。まあ、この胸クソの悪さはフィンチャー作品のお約束みたいなものであり、今さら文句を言っても仕方がない。

実際、上映時間158分に及ぶ大作なのだが、随所にこの監督らしいショッキングなシーンが挿入されているために緊張感が途切れるような心配は無用。ジェイク・ギレンホールマーク・ラファロ、そしてロバート・ダウニーJr.という豪華俳優陣による演技合戦も素晴らしく、十分に満足のいく作品だった。

ということで、あの「ダーティハリー(1971年)」の犯人はゾディアックがモデルになっていたそうであり、本作にも、気晴らしのため映画館に入ったトースキー刑事が、上映中のその作品を最後まで見られずに退出してしまうシーンが出てくる。実話だとしたら気の毒な話だが、思わずニヤリと笑ってしまいました

どら平太

2000年
監督 市川崑 出演 役所広司浅野ゆう子
(あらすじ)
 江戸詰めの主君から町奉行を仰せつかった望月小平太(役所広司)の目的は、“堀外”と呼ばれる藩内の無法地帯の大掃除。そこは大河岸の灘八、巴の多十、継町の才兵衛という3人の親分によって支配されており、禁制品の抜け荷をはじめとするあらゆる悪事が行われていたが、そこから得られる莫大な上納金に目が眩んでしまった藩の上層部は、彼らの悪事を黙って見逃していた…


黒澤明木下恵介市川崑小林正樹の共同脚本による痛快新時代劇エンタテインメント。

コロナ予防のため外出もままならず、ヒマだけは十分にあるのだが、小心者の故か、何処か心が落ち着かず、ゆっくり本を読んだり、映画を見たりする気になれないのが困りもの。そんな訳で、庭の草むしりをしたり、娘のNintendo Switchで「あつまれ どうぶつの森」をしたりしてヒマを潰しているのだが、そんなことではイカンと手に取ったのがこの作品。

最初は前記4人によって結成された「四騎の会」の第一回作品として企画され、お蔵入りになった後、市川の監督でオリジナル脚本を大幅に変更して公開されたといういわくのある作品であり、公開当時、ちょっと興味をそそられたものの、確か評判はそれほど高くなかったハズであり、もっぱら洋画ファンだった俺も長らく未見のまま放置しておいた。

さて、そんな訳で劇場公開から20年後の初観賞になったのだが、正直、期待していた脚本は緩すぎてまったく締まりがない。黒澤の用心棒シリーズに“遠山の金さん”を加味したような設定は悪くないのだが、それがまったく活かされていないのは何故なんだろう。例えば、主人公には安川(片岡鶴太郎)と仙波(宇崎竜童)という友人がおり、そのどちらかが事件の黒幕らしいのだが、まあ、配役をみればどちらが裏切り者かは容易に推測できてしまう。

しかし、20年寝かせておいた効果か、はたまたコロナ禍の心理的影響かは不明だが、このゆる~い作品が今の俺には心地よく感じられたのも意外な事実。特に撮影、照明、美術といった脚本とはあまり関係ない要素を堪能することが出来たのは望外の喜びであり、TVドラマと区別がつかないような昨今の邦画作品とは、正直、雲泥の差があるね。

ということで、本作が制作されたのはバブル崩壊からかなりの時間が経っていた時期のハズだが、その頃と比べても現状がさらに貧しくなっている事実を再認識。この痛手から立ち直るためにはおそらく数十年単位の時間を要するだろうが、過ちを改めるのに躊躇う必要はなく、今回のコロナ禍から得られるであろう様々な反省や教訓がそのきっかけになることを願っています。

正統とは何か

G.K.チェスタトン著作集の1巻目。

さて、本書のテーマである「正統とは何か」という問に対する答は、早くも冒頭の「1 本書以外のあらゆる物のための弁明」の最後で明らかにされており、それは「厳然たる事実として、キリスト教信仰の核心が、現実生活のエネルギー源として、また健全な道徳の根源として、最善最上のものだ」というもの。

先日読んだ「新ナポレオン奇譚」と同様、解題を担当しているピーター・ミルワードによると、本書が発表された1908年当時のイギリスでは「あらゆる存在が神によって創造されたことを否定するのは言うまでもなく、根本的に人間の理性と常識を否定」するような思想家たちがもてはやされていたそうであり、そんな風潮に対する反論として執筆されたのがこの著作ということになるらしい。

続く「2 気ちがい病院からの出発」と「3 思想の自殺」では、唯物論懐疑論、進化論といった当時の「現代思潮」が俎上に載せられているのだが、それらに対する評価は散々であり、「狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」と説く著者にとって、「健康人の持つ躊躇も、健康人の持つ曖昧さ」も失ってしまい、「根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性」のみに取りすがろうとする思想家たちは「気ちがいと同じように見える」らしい。

一方、「けっして疑うべきではないはずのもの―神にも似たその理性」に対する信頼を失ってしまったことも「現代思潮」の憂慮すべき問題点。「人間の知性には自己破壊の力」があること、そして「もしやみくもに万事を疑うとするならば、まず疑われるのが理性である」ことを「人びとは本能的に悟っていた」訳であり、そんな「思想を破壊する思想」から理性を守ることこそが「あらゆる宗教的権威」の目的であったことを我々は再認識しなければならない。

さて、このような「現代思潮概観」の後、いよいよ著者の人生観が披露される訳であるが、「4 おとぎの国の倫理学」と「5 世界の旗」で明らかになるのは、「民主主義と伝統―この二つの観念は、少なくとも私には切っても切れぬものに見える」という著者の伝統主義と、「われわれの人生にたいする態度を表わすのには、頭で考えて良し悪しを言うのよりは、一種の軍隊的忠誠の問題として言ったほうが適切である…私がこの宇宙を良しと見たのは…むしろ愛国心と言ったほうがよい」という愛国主義

正直、著者に対して抱いていたイメージとのギャップにちょっと戸惑ってしまうのだが、「反逆者はあらゆる王国よりも古い歴史を持ち、王朝にたいする反逆者は、あらゆる王朝の支持者よりも長い伝統を持つ」という言葉からも分かるとおり、著者の伝統主義は権威主義とは無縁であり、また、「自分の国を愛するのに、何か勿体ぶった理由を持ち出す連中には、単なる偏狭な国粋的自己満足しかないことが往々にしてある。…愛国心によって歴史を歪曲するようなことをあえてする人びともまた、実は歴史を愛国心の根拠にする人びとだけなのである」と歴史修正主義にも手厳しい。

続く「6 キリスト教の逆説」では、「われわれが求めるのは、愛と怒りの中和や妥協ではなく、二つながらその力の最強度において、二つながら燃えさかる愛と怒りを得たい」というキリスト教倫理の本質が明らかにされるが、それは第2章で紹介されている「大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾をひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである」という「平常平凡な人間」の感覚に通底しているように思われる。

そして、次の「7 永遠の革命」が本書のクライマックスであり、まず、ここまでの要約として「第一、この世の生活を信じなければ、この世の生活を改善することさえ不可能であること。第二、あるがままの世界に何らかの不満がなければ、満足すること自体さえありえぬということ。第三、この不可欠なる満足と不満足を持つためには、単なるストア派の中庸だけでは足りぬこと…単なる諦念には、飛び立つような巨大な喜びもなければ、断固として苦痛をしりぞける力もないからだ」という三つの命題が示される。

本章でこれに追加されるのが「われわれはもう一つ別の世界が大好きでなければ、この世を変えるべきそのモデルが見つからぬ」という最後の命題であり、「ある一日マルクス主義者になったかと思えば、あくる日はニーチェ主義者、そしてその次の日はきっと超人になる」というのでは「来る日も来る日も奴隷であることに変わりがない。…こういう哲学すべてによって得をしているのはただ一人、工場主だけというわけである」。

したがって、「進歩の目標となる理想」、すなわち著者のユートピアにとって「まず第一に必要なのは、それがみだりにぐらつかないということ」であり、「永遠の理想は、保守派に必要なばかりでなく、革新派にも同様に必要だと言えるのである。王の命令が直ちに執行されるのを望む場合も、王の死刑が直ちに執行されるのを望む場合も、立場にかかわりなく永遠の理想は必要なのである」。著者の伝統主義や愛国心はこの要件に結びついているのだろう。

第二の要件としては、「それは複合的でなければならぬということ」であり、「われわれの魂に真の充足を与えるためには、愛か誇りか、平和か冒険か、そのどちらか一つが勝ち残り、他の一切を呑みこんでしまう」のではなく、「こういう要素が最善の釣合いを持ち、最善の調和を保って、一幅の明確な絵を構成しなければならぬのである」。

そして第三の要件は、「われわれは、ユートピアにおいてさえもいつも目を見開いて注意を怠ってはならぬということ」であり、「たとえば白い杭を放っておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいというのなら、いつでも何度でも塗り変えていなければならない―ということはつまり、いつでも革命をしていなければならぬということなのである」。

著者はここで白い杭がたちまち黒くなってしまう理由として、「人間の美徳は、その本来の性格からして、いずれ錆びつき、腐るものなのだ」というキリスト教の教義を紹介しているが、これこそが人間の「原罪」であり、「金持を完全に信用することに、条理をつくして反対できるのはただキリスト教だけだ。…危険は人間の環境にはなく、人間自身の中にある」ということになる。

このことからも明らかなとおり、著者がこれらの要件をすべて満たすユートピアとして推奨しているのが伝統的なキリスト教の世界であり、著者が「のろのろと、自分の頭で、いわば一字一字考え出していった」理想が、「私などよりはるか前に、すでにちゃんと」キリスト教の世界で実現されていたことを再発見する、というのが本書のキモになっている。

そんな著者が要求するユートピアの最後の要件は、「自分のした取り引きには是が非でも責任を取らされるのでなければならぬ」ということなのだが、その説明に際し、「現実的にして取り返しのつかぬ最大の例の一つ」として「キリスト教の結婚」を挙げているところが何とも面白い。

さて、続く「8 正統のロマンス」でキリスト教と「仏教や東方の運命論」との比較(=キリスト教は「あらゆる神学のうちで最も冒険に富み、最も男らしい」)等を行った後、最後の「9 権威と冒険」では「もしキリスト教的正統という栗のイガの中に、良識の栗の実が入っているのが明らかだというのならば、なぜ栗の実だけ取ってイガは捨ててはならぬのか」という「一通り物のわかる不可知論者」からの興味深い“問い掛け”を取り上げている。

これまでの唯物論批判等もそうであったが、ここでの著者の“回答”は少々底の浅いものであり、正直、「一通り物のわかる不可知論者」をキリスト教に改宗させるだけの内容にはなっていない。しかし、「もしわれわれが貧しい人びとを護りたいと望むのならば、何としても不動の規範と明確なドグマとに賛成するはずだ。早い話が、社交クラブの規則は時として貧しい会員に好都合なこともあるが、成り行きまかせの変化を許せば、クラブはたちまち富める者に好都合なものに変わっていくからである」という主張には共感せざるを得ず、もし、このような倫理観が健在であったなら、今のようにイギリス国民が新自由主義に支配されることもなかったであろう。

残念ながら、我が国におけるキリスト教の影響力は決して高くはないが、本書を読んでいて何度も思ったのは、その代わりとして我々はもっと“正義”という理念に自信を持って良いのではないかということ。どんなに優秀であっても、どんなに努力したからといっても、一部の人間の得る収入が庶民の数十倍になるような社会は正義に反している訳であり、我々は自信を持ってそれに抗議していかなければならない。

最近は“正義の暴走”などと揶揄されることも少なくないが、本来的に弱者の味方であるべき正義が津久井やまゆり園事件のような凶行を許すはずがないのは当たり前のこと。勿論、論理的に何が正義かを判断することが難しい場合もあるだろうが、おそらくそれはキリスト教信仰においても起こりうるジレンマであり、そのときには「大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次」という庶民の常識に立ち返ってみれば良いのだろう。

ということで、期待したとおりとても面白い読み物であり、これですっかりチェスタトン・ファンになってしまったみたい。しかし、注意すべきなのは、本書は彼が35歳のときに書かれたという衝撃の事実であり、う~ん、この漲るような自信はいったい何に由来するのだろう。ちなみに、本書を読みながら考えた自己流キリスト教論(?)を最後に備忘録的に書いておこうと思います。


1 人間というのは、知恵によって自然に逆らって生きていくことを選択した時点で“矛盾した存在”になった訳であり、その矛盾こそが聖書にいう原罪なのだろう。確かに、キリストが十字架に掛けられたことによって原罪は許されたはずであるが、それはこの矛盾自体が解消された訳ではなく、人間が矛盾した存在であるということが許容されたにすぎない。(注:ここはチェスタトンの原罪論とは異なる。)

2 つまり、人間はその出発した時点で矛盾しているのだから、その後の人生が矛盾だらけになるのは当然のことであり、むしろ相矛盾する「二つのものを二つながらまったく生かして、二つながら激越なるがままに包み込むという方法」を選択するのでなければ、人生の喜びを満喫することは出来ない。

3 したがって、危険なのは矛盾のないまっすぐな理論の方であり、そういったものには十分用心しなければならない。それを見分けるために重要なのが伝統、簡単に言えば庶民の常識であり、どんなに理屈の通った魅力的な議論であっても、それが常識的とは思えない極端なことを言い出したら、その時点で眉にツバを付けてみるべきである。

4 なお、ここで伝統というのは物や制度ではなく、それが実現しようとしている理想、理念のことであり、当然、時の権力によって拘束されるようなものでもない。白い杭をいつまでも白く保つためには何度でも白く塗り直す必要があるのと同様、伝統を維持していくためにはむしろ不断の革命が必要になってくる。

昭和史発掘 特別篇

昨夏に一応読了した松本清張の「昭和史発掘」の“特別篇”。

収められているのは、単行本の方には収録されなかった「政治の妖雲・隠田の行者」と「『お鯉』事件」の2話と、昭和50年という節目の年に行われた3つの対談。前者に関しては、昭和史として「正面からとりあげるほどのものでもない」のだが、8年間に渡る長期連載中の“肩ほぐし”のために最初から番外編として執筆されたものらしい。

さて、「政治の妖雲・隠田の行者」で取り上げられているのは、「明治の終りから大正にかけて日本のラスプーチンとかいわれ、その怪物ぶりを発揮した」という飯野吉三郎。職業(?)は占い師だが、「東京で小学校に勤めていたが、神示を受けて郷里岐阜県の恵那山に立籠もり、陰陽学を究め、仙術を体得した」と吹聴していたと言うから、まあ、その実態は詐欺師かペテン師の類いだったのだろう。

しかし、「人の心をつかむことには一種の天才であった」そうであり、愛人だった下田歌子(=女官として昭憲皇太后に仕え、一時期、伊藤博文の愛人でもあったらしい。)をはじめ、「宮中、政界の大物の間を泳ぎまわっている間に得た」情報をネタにした“予言”によって、山県有朋児玉源太郎といった有力者たちを次々に虜にしていったとのこと。

とはいうものの、本家ラスプーチンに比べるとスケールは相当小さかったようであり、歴史に残るようなことと言えば1910年の大逆事件のでっち上げに関与した(=奥宮健之が幸徳秋水から爆裂弾の製造法を訊かれたことを山県に告げ口した。)ことくらい。「昭和に入ると、も早、飯野のような人間は出てこないと思われる」と著者は書いているが、おそらく今のまま独裁制エスカレートしていけば、ラスプーチン的人物の活躍する場も広がっていくのだろう。

次の「『お鯉』事件」では、1934年に司法大臣だった小山松吉が収賄行為で告発された事件を取り扱っており、“お鯉”というのはこの事件で小山法相に不利な証言を行った女性の芸者時代の名前。明治の宰相桂太郎の「愛妾として名が高く、明治政界裏面史に大きな役割を演じている」人物だったらしい。

結局、この告発自体が、小山法相への私怨と斎藤内閣に対する倒閣運動とが絡み合った茶番であることが判明し、お鯉は逆に偽証罪で有罪判決を受けてしまうのだが、興味の大半は「年齢よりは若くて非常にきれい」だったという彼女の魅力に依るところが大きく、まあ、当該倒閣運動の背後に軍部内閣の成立を企む平沼騏一郎の存在が透けて見える点を除けば、確かに「正面からとりあげるほどのものでもない」事件と言うことになるのだろう。

さて、3つの対談の方には、それぞれ「戦前篇 不安な序章―昭和恐慌」、「戦中篇 吹き荒れる軍部ファシズム」、「戦後篇 マッカーサーから田中角栄まで」というテーマが付されており、最初の「戦前篇」で松本の相手役を務めているのは、広田弘毅の生涯を描いた「落日燃ゆ」を発表したばかりの城山三郎

「昭和史発掘」で取り上げた時期と一致しているためか、議論をリードしているのは本来ホスト役を務めるはずの松本の方なのだが、西園寺公望高橋是清浜口雄幸井上準之助といった個々の政治家に対する城山の熱い“思い入れ”が伝わってくるところが面白く、このへんが両者の作家としての資質の違いなんだろう。

「昭和恐慌」を引き起こした原因の一つとして、城山が「経済のことをよく知らぬ連中が、(台湾銀行救済の要否を)政争の具にしてしま」った点を挙げているが、これは我が国の現政権にも見られる“政治主導”の危険性。対談の最後では「形をかえたファシズム」、「もっと糖衣にくるんだようなファシズム」に対する懸念が表明されているが、この対談の行われた年の2月にサッチャーが保守党党首に選出されていることを考えると、両者とも新自由主義の予兆みたいなものを感じ取っていたのかもしれない。

次の「戦中篇」のお相手は「人間の條件」で知られる五味川純平であり、1939年のノモンハン事件以降の話題に関しては彼が議論の主導権を握っている。彼が度々口にしているのは、明確な戦闘目的(=引き際)を定めずにズルズルと深みに嵌っていく旧日本軍の悪弊についてであり、「寡兵をもって大敵を破る」という彼らの信条(=というより美学?)についても明確にその合理性を否定している。

また、興味深いのは松本の「満州だけに局限していれば何か便宜的な解決はついていたんじゃないか」という発言であり、その理由は「当時としては漢民族にとって満州は伝統的に異民族の地だった」から。日ソ中立条約の締結直後に「御前会議で対ソ武力発動を決定している」ことをもって、1945年8月に「ソ連が入ってきたことを難詰する権利を、日本は…失っていたのではないか」という五味川の「言い分」も面白かった。

そして、最後の「戦後篇」に登場するのは、唯一作家ではない、哲学者の鶴見俊輔であり、「昭和史発掘」の守備範囲を超えているせいもあってか、巻末の「解説―同時代史としての『昭和史発掘』」を担当している有馬学氏の言うとおり、「ここでの主役は、鶴見の独特の戦後史理解であるように思われる」。

そんな「独特の戦後史理解」に含まれるのかどうかは分からないが、一番興味深かったのは「農地改革とか財閥解体とか、独占資本の分散だとかを行なった民政局(GS)配属のニューディーラー」の存在。彼らがその後の一億総中流時代の基礎を提供してくれたのは確かなのだろうが、そのことが「自然に、農民に社会主義でなくてもいい、という考え方を植えつけた」というのは皮肉なことであり、結局、新自由主義の強烈な巻き返しにあって今日の格差社会を招来してしまう。

また、憲法9条のアイデアについて、鶴見は「日本政府から出てきたものではないでしょう」と認めながらも、幣原喜重郎にとって「戦争を放棄する国家がなければならない、という考え方は自然に出てきたものだと思います」と述べている。これに対し、松本も「軍部に対する彼の怒りが新憲法の『戦争放棄』を心情的には容易にうけいれさせたとも考えられ」ると同意しているが、この「怒り」は当時の大衆の中にも広く共有されていたのだと思う。

ということで、公害反対運動に関して、「工場労働者が自社の企業エゴに味方している現象は困ったものです。…もっと民衆の一人という意識になって内部告発の過程をすすめてほしいですね」という松本の発言で対談は幕を閉じる。それから45年後、「企業エゴ」は“日本スゴイ”という糖衣にくるんだナショナリズムにまで成長してしまったが、その責任を、改革を途中放棄させられた「民政局(GS)配属のニューディーラー」に押し付ける訳にはいきません。

棒ノ折山

今日は、妻と一緒に埼玉県飯能市にある棒ノ折山を歩いてきた。

異常気象のせいで早くも各地から山野草開花の情報が伝わってくるのだが、先行きの見えないコロナウィルス騒動の影響で今一つ春めいた気分になれないのも事実。しかし、長期戦を想定するとストレスを溜め込んでしまうのはむしろ危険であり、ネットで調べた人気の山を歩いて来ようということで、午前7時前にさわらびの湯バス停隣りの駐車場に到着する。

身支度を整えて7時4分に出発し、まずは車道を歩いて有間ダムに向かう。無風快晴という絶好のコンディションの故、前後に登山者の姿は認められるが、まだ早朝ということもあって恐れていた人込みは起きていない。ダムサイドをのんびり歩いて7時29分に白谷沢コースの登山口に着く。

その先しばらくは斜面の途中に付けられたトラバース道が続くが、道幅は十分でとても快適に歩いて行ける。30分弱で白谷沢に行き当たると、今度はゴツゴツした岩の上を歩く沢歩きが始まるが、こちらも特に難しい所はなくてなかなか良い気分。初夏の頃にでも歩いたらさぞかし爽快なことだろう。

事前学習によると藤懸の滝(7時56分)の先あたりでハナネコノメが咲いているということだったが、実物を見たことがないのでどこを探せば良いのか分からない。しかし、ふと目に入った岩(8時2分)の上にとても小さな植物が群生していたので、念のためスマホのカメラで拡大してみたところ、何とこれが大当たり!

正直、アカモノくらいの大きさを予想していたのだが、実物はケシ粒大であり、肉眼でその可愛らしさを愛でることはほとんど不可能に近い。おそらく接写が可能な一眼レフカメラスマホの普及がなかったらこの花が話題になるようなことはなかったはずであり、う~ん、山野草観察も随分現代的(?)になったもんだなあ。

そんなことを考えながらハナネコノメの撮影を終了し、天狗の滝(8時8分)~ゴルジュ入口(8時13分)と沢を遡行していく。鎖場も出てくるが、沢歩き同様、危険性は軽微であり、小学生ぐらいの子どもを連れてきたらむしろ大喜びするんじゃなかろうか。その後、階段状の傾斜を上って沢から離れると、8時44分にベンチの設置された林道に出る。

これまで大した傾斜はなかったものの、ここから先が山歩きの本番であり、それなりの急斜面を一歩ずつ上って行く。岩茸石のある分岐(8時59分)の先にもオーバーユース気味の木の根の飛び出た山道が続いているが、何とか頑張って9時28分に権次入峠(893m)。そこのベンチで一休みした後、9時46分に「棒ノ嶺969m」の表示のある山頂に着くことが出来た。

広場のような山頂には東屋やベンチ等が設置されており、ちょうど空きの出来たテーブル付きのベンチに座って大休止。休憩している登山者は多いものの、混雑というには程遠い故、コロナ感染を心配する必要はないだろう。おにぎりとカップ麺で空腹を満たし、2週間前に歩いたばかりの飯能アルプスの山並みを眺めてから、10時20分に下山に取り掛かる。

権次入峠(10時33分)~岩茸石分岐(10時57分)までは往路を引き返すだけだが、下山するよりこれから山頂を目指す登山者の方がずっと多く、もう少しすると山頂は満員になってしまうのではなかろうか。しかし、分岐を直進して滝ノ平尾根に入ると一気に人影は少なくなり、う~ん、ピストンで白谷沢を下りる人の方が多いのかしら?

そう思ったのは滝ノ平尾根の単調さのせいもあり、林道(11時10分、11時24分、11時31分)を横断する以外、これといった目立った変化は見られない。しかも、それなりの傾斜があるためお散歩気分という訳にもいかず、車の騒音が聞こえるようになってもなかなか終わりが見えてこない。

しかし、白谷沢を下りたとしても上ってくる人とのすれ違いに難渋したであろうことは間違いなく、まあ、それに比べればこっちのほうが幾分マシかなあと妻に言い訳をしながら、ようやく滝ノ平尾根の登山口(12時26分)まで下りてくる。駐車場に着いたのは12時32分のことであり、本日の総歩行距離は9.1kmだった。

ということで、「さわらびの湯」で汗を流すつもりでいたのだが、駐車場付近のもの凄い路上駐車の台数を見て急遽計画を変更。家で「あつまれ どうぶつの森」を楽しんでいるはずの娘にLINEを入れてお風呂の用意を依頼し、途中、ガソリンスタンドに寄っただけで無事帰宅しました。
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新ナポレオン奇譚

1904年に発表されたG.K.チェスタトンの処女長編小説。

正直、チェスタトンの代表作ともいうべき“ブラウン神父シリーズ”にはそれほどハマれずにいるのだが、その文章の端々から垣間見られる彼の哲学というか倫理観には妙に惹かれるところがあるのも事実。そんな訳で、ブラウン神父シリーズ以外の作品(=既読の傑作「木曜日だった男」を除く。)を読んでみようと思い立ち、さっそく手にしたのがこの作品。

さて、物語の舞台は、発表当時から80年後に当たる1984年のロンドンということになっているのだが、その頃のイギリスでは「人々が革命…(すなわち)積極的かつ神聖なものに対する信仰をまったく失っていた」ために「今から80年後、ロンドンは、ほとんど現在とそっくりそのままのロンドンであ」り、近未来小説的な雰囲気は極めて希薄である。

「支配階級が支配することを誰も気にとめなかった」せいで「民主主義は死に絶え」、「事務的な交替表にもとづいて選出され」た国王が支配するという事実上の「専制君主制」になってはいたものの、まあ、ロンドン市民は国王が「どのような方法で選ばれようと、誰が選ばれようと」気にもとめずに「泰平至極」の日々を送っていた。

そんな訳で、「冗談以外、なにも興味のない」オーベロン・クウィンが新国王に選ばれ、「古き中世都市の誇りを復活される」ためにロンドンの各自治区に城壁を築かせ、衛兵を持たせるという内容の「自由市憲章」を発布したときも、まあ、ちょっとはた迷惑な悪ふざけくらいにしか思われなかった。

しかし、その自由市憲章を真面目に受け取ってしまった人物が現れたものだから、国王自身も吃驚仰天。その人物こそ若きノッティング・ヒル市長(=やはり順番制で指名される。)のアダム・ウェインであり、愛する郷土の景観を大規模な都市開発計画から守るため、ノース・ケンジントン、ウェスト・ケンジントン、サウス・ケンジントンベイズウォーターの各市に対して剣を手に戦いを挑む!

結果は、郷土愛に燃えるノッティング・ヒルの大勝利であり、同市が全ロンドンの統治権を独占することになるのだが、敵味方を問わずウェインによって火を付けられた郷土愛(=「われらは敵に郷土愛を教えたのだ!」)はとどまるところを知らず、その戦いから20年後、ノッティング・ヒルの暴政に抗して立ち上がった各市の市民たちの手によって“帝国”は最後の日を迎える…

以上が本書のあらすじであるが、偶然ではあるものの、先日読んだばかりの橋川文三の「ナショナリズム」に通じるテーマを取り扱っているところが面白い。例えば、「祖国を愛する者はいかなる状況のもとでも決して祖国の大きさを誇ることはなく、むしろ常にその小ささを誇らずにはいられない」というアダム・ウェインの祖国愛は、橋川の分類によればパトリオティズムであり、ナショナリズムとは一応区別して考えなければならない。

しかし、その影響力、特に「剣はさまざまなものを美しくする。今、剣は全世界をロマンチックに塗り変えてしまった」と言われる魔法の杖=剣を伴った場合におけるパトリオティズムの感染力は驚異的であり、ノッティング・ヒル市民ばかりか、ウェインを狂人扱いしていた各市の市民までも熱烈な愛国者へと変貌させてしまう。

そんな素朴な祖国愛がいつの間にか帝国化してしまい、他の各市の祖国愛を蹂躙するようになるというのは何とも皮肉な話だが、解題を書いているピーター・ミルワードによると、イングランドという「祖国」に首ったけだった少年時代のチェスタトンが、「(大英)帝国」と呼ばれる「曖昧でとりとめのないもの」に対して抱いた違和感が本書の執筆動機になっているそうであり、彼自身、パトリオティズムナショナリズムの違いについては相当頭を悩ませていたのだろう。

また、物語の最後のほうで、ウェインの亡霊がクウィンの亡霊に対して「喜びのない、暗い時代がくると、あなたや私のような純粋な風刺家や狂信者が必要とされます」と告げる場面があるのだが、それはまるでヒトラーの出現を予言したかのような言葉であり、「文学において失敗したおかげで、英国史上における驚異となった」というウェインの生い立ちも、画家を目指して挫折したヒトラーにそっくり。

そして、さらに悲惨なのは、この「喜びのない、暗い時代」という条件が今のわが国の状況にもある程度当てはまってしまうことであり、う~ん、ひょっとすると安倍晋三という人物には、文学や芸術的素養の欠如等極めて低いレベルではあるものの、アダム・ウェイン的資質が備わっているのかもしれないなあ。

ということで、ミルワードは「いにしえの巨人に対するジャックの戦い、巨大なものに対する卑小なものの戦いの倫理」、「富者に対し貧者を、強者に対して弱者を、そしてまた異常なものに対して尋常なものを守る防衛」といった言葉を用いてチェスタトンの哲学を紹介しているのだが、多くの読者が彼の作品に惹かれる理由もおそらくそこにあるんだろう。次は彼の小説以外の著作を読んでみようと思います。

バンブルビー

2018年
監督 トラヴィス・ナイト 出演 ヘイリー・スタインフェルドジョン・シナ
(あらすじ)
1987年のカリフォルニア。18歳の誕生日を迎えたチャーリー(ヘイリー・スタインフェルド)は、アルバイト先のスクラップ置き場で埃をかぶった一台の黄色いフォルクスワーゲン・ビートルを見つける。プレゼント代わりにそのビートルをもらい受けた彼女が、自宅のガレージで車の下に潜り込んでみると、何とそこには顔のようなものが付いており、見る間にロボットの姿へと変身していく…


トランスフォーマー・シリーズの人気キャラであるバンブルビーを主人公に据えたスピンオフ作品。

本当は、とても楽しみにしていたレネー・ゼルウィガー主演の「ジュディ 虹の彼方に(2019年)」を見に行くつもりだったのだが、コロナウィルスによる自粛ムードを考慮して延期を決定。しかし、古賀志山への早朝散歩を済ませてしまうと他にやることが無くなってしまい、仕方がないのでAmazonプライムで配信されていた本作を見てみることにした。

さて、本家のトランスフォーマー・シリーズは1作目の「トランスフォーマー(2007年)」しか見ていないのだが、その理由は監督のマイケル・ベイが苦手だからであり、むしろロボット映画は俺の大好物の一つ。幸い本作の監督は「KUBO/クボ 二本の弦の秘密(2016年)」のトラヴィス・ナイトであり、ひょっとしたらと実はちょっと期待して見たのだが、結局、マイケル・ベイの呪縛から抜け出せていないというのが鑑賞後の率直な感想だった。

まあ、題材的には決して目新しくないものの、「アイアン・ジャイアント(1999年)」から「ベイマックス(2014年)」まで、ハズレの少ない鉄板ネタのはずなのだが、本作の酷い脚本はその鉄板をも粉々にしてしまうほどの凄い破壊力であり、金太郎飴みたいにどこを切っても“陳腐”の二文字しか出てこない。

そんな原案と脚本を担当しているのはクリスティーナ・ホドソンという女性ライターらしいのだが、彼女の書き下ろした新作が「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey(2020年)」だそうであり、う~ん、見る前からマーゴット・ロビーの運命がとても心配になってしまった。

ということで、本作が実写映画デビューとなるトラヴィス・ナイトの演出も凡庸であり、アクションシーンにも何ら新しい工夫は見当たらない。唯一の救いは主演を務めたヘイリー・スタインフェルドの魅力であり、彼女がいなかったら最後まで見続けるのは難しかったかもしれません。