三十九夜

1935年
監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ロバート・ドーナット、マデリーン・キャロル
(あらすじ)
カナダからロンドンに越してきたばかりのハネイ(ロバート・ドーナット)は、ふと立ち寄ったミュージック・ホールで発砲事件に遭遇。謎の美女アナベラに救いを求められた彼はとりあえずアパートに連れ帰るが、自分が“39 Steps”という組織から国防機密を守るためのスパイであることを告白した彼女は、翌朝、“逃げて、次はあなたよ”という言葉と握りしめたスコットランドの地図を遺して刺殺されてしまう…


ヒッチコック初期の代表作と言われる巻き込まれ型サスペンス映画の佳作。

アパートを見張っていた男たちから逃げ延びたハネイは、新聞で自分にアナベラ殺害の容疑がかけられていることを知って激しく動揺。警察からも追われる身となった彼は、やむなく彼女が地図に印を付けておいた場所を訪ねてみようとするのだが、そこで彼を待っていた人物とは…といった具合にストーリーは続いていくのだが、88分という短い上映時間の中にはこれでもかというくらいに多彩な映画的アイデアがギッシリ詰め込まれている。

例えば、外套の胸ポケットに入っていた聖書のおかげで銃弾が致命傷にならないというのは「荒野の1ドル銀貨(1965年)」みたいだし、追っ手から逃れるために入った公会堂でいきなり講演を依頼されるという展開は「第三の男(1949年)」の中の一場面を思わせる。その他にも、警察の目から逃れるために見ず知らずの女性にキスをしたり、小指のない男、手錠で繋がれた男女が一夜を過す等々、どこかで見掛けたようなシーンが次々に登場して観客の目を楽しませてくれる。

もちろん、これらのアイデアのすべてが本作のオリジナルという訳ではないのだろうが、スリラー映画で食べていこうと決意した当時のヒッチコックの意気込みが良く伝わってくる力作であり、主人公の絶体絶命のピンチを“39 Steps!”の一言でハッピーエンドに変えてしまうラストもお見事。Mr.メモリーの芸人としてのプライドがちょっぴり悲しかった。

また、謎の美女アナベラから始まって次々にヒロインが入れ替わっていくというシナリオも良く出来ているのだが、最後に現われるのが、主人公にほのかな恋心を抱く薄幸の美女クロフター夫人ではなく、列車の中で彼を警察に引き渡そうとした勝ち気なブロンド美人のパメラ(マデリーン・キャロル)というのが、ヒッチコックらしくてとても面白かった。

ということで、“ヒッチコック初期の代表作”と言われるだけあってなかなか良く出来た作品であり、他にも見逃しているヒッチコック作品がないか良く調べてみよう。ちなみに「THE 39 STEPS」という原題を「三十九夜」と翻訳した理由はネットで調べても不明なままであり、正直、こんな気の抜けた邦題でなかったらもっと早くに見ていたんじゃないかと思います。

アド・アストラ

今日は、妻&娘と一緒にブラッド・ピット主演のSF映画「アド・アストラ」を見てきた。

正直、事前情報が極めて少ない作品であり、予告編を見ても、宇宙を舞台にしたSF映画であることと失踪した父親探しが一つのテーマになっていることくらいしか分らない。しかも、何故か日米同時公開の故、全米での興行成績も不明であり、娘の“リヴ・タイラーがヒロインだから新装「アルマゲドン(1998年)」に違いない!”という無茶苦茶な予想を聞き流しながら映画館へ向かう。

さて、ストーリーは、そんな娘の予想を完全に裏切る極めて真面目な物語であり、宇宙規模で頻発するようになった“サージ”を止めるために、ブラピ扮するロイ少佐がその発生源が存在するらしい海王星に向かって旅立つという内容。実は、海王星の軌道上には十数年前に事故死したと思われていたロイの父親クリフォードの乗る宇宙船が今も浮んでおり、地球を破滅させるかもしれない危険なサージはそこから発せられているのだ!

まあ、こんなふうに要約すると、“クリフォードがサージを発生させている理由は何か?”という点が本作の最大のポイントになると思われてしまいそうだが、どうやらそれは単なる事故の影響であり、本作のテーマとはほぼ無関係。要するに、シナリオ的にはロイとクリフォードとを出会わせるための方便に過ぎなかった。

では、何が本作のテーマなのかといえば、おそらく“父と子の和解”であり、家庭を犠牲にして地球外生命体の探査に没頭する父親への怒りを押さえ込もうと努力してきた結果、感情レベルでのコミュニケーションが困難になり、妻とも別れてしまった主人公が、海王星への長い旅を通して父親を理解し、許すことによって自らの感情表現を取り戻す、っていうことなのかもしれない。

しかし、そんな話であれば何も海王星くんだりまで出掛ける必要は全く無い訳であり、(娘の言うとおり)日本で和菓子作りにハマってしまったトミー・リー・ジョーンズを息子のブラピが迎えに来るというストーリーで十分だったはず。SF映画にするのであれば、SFでなければ描けないようなもっと崇高かつ非日常的なテーマを選んで欲しかった。

また、そんな単調なストーリーに変化を持たせるために採用したエピソード(=月面での略奪者とのカーチェイスや実験用サルとの格闘等)も底の浅いものばかりであり、おそらく脚本も担当しているジェームズ・グレイ監督も意識していたであろう「2001年宇宙の旅(1968年)」のHALのエピソードとは大違い。結局、改めてスタンリー・キューブリックアーサー・C.クラークの凄さを再認識させられる結果になってしまった。

ということで、せっかくCG等の技術が飛躍的に進歩しても、SFならではのセンス・オブ・ワンダーを満足させてくれるような魅力的なストーリーが無ければ優れたSF映画は生まれてこない。ここはあまり新作にはこだわらず、我々オールドSFファンが喜ぶようなSF黄金期の小説を映画化してみてはいかがでしょうか。

二十日鼠と人間

1937年に出版されたジョン・スタインベックの中編小説。

以前読んだ「怒りの葡萄」がとても面白かったので、その2年前に発表されたこの作品を読んでみることにした。「怒りの葡萄」のテーマが“怒り”だとすれば、本作のそれは“孤独”であり、不況の長引く中、カリフォルニア州を放浪するジョージとレニーという二人のホーボーの悲劇的な友情の行方が描かれている。

二人は幼馴染みらしいのだが、「小がらできびきびしてい」るジョージに対し、レニーの方は柔らかくて「気持のいいものをなでるのが好き」という「うすのろ」の巨漢。「400ポンドのたわらだって、持ち上げ」るほどの怪力の持主だが、その力をセーブすることが苦手なため、二十日鼠でも子犬でも撫でるときについ力を入れすぎて殺してしまうことが度々ある。

そんな二人が働くことになる農場のリーダー的存在であるスリムの話によると、「他人のことなんか、かまっている者はいやしねえ」というのがホーボーの実態らしく、彼はジョージ向かって「あいつみたいなばかと、おまえみたいなはしっこい男が、つながって歩いていると、おかしな気がする」と言うのだが、その理由を教えてくれるのは農場で唯一人の黒人である背中の曲がったクルックス。

他の労働者とは別に馬具置場で一人寝起きしている彼は「黒ん坊だからというんで、飯場にもはいれねえし、トランプ遊びもできねえ」という境遇なのだが、そんな人種差別さえ知らずに彼の部屋に入ってきたレニーに対し、「人間はだれか相手が入用なんだ―だれかしらが、そばにいることがな」と訴える。

実は、うすのろのレニーの前でつい本音を漏らしてしまうのはクルックスだけに限らず、老いぼれ掃除夫のキャンディや失意の日々を送っている淫乱な新妻もレニーの前では妙に素直になってしまうのだが、それはスリムの言うとおりレニーが「いいやつ」であり、「いいやつになるには、あたまはいらねえ…ほんとに利口な男には、いいやつなんてめったにいねえから」なんだろう。

そんな“友情”とともに人間にとって欠かせないのが“希望”であり、いつの日か、ジョージが購入した小さな農場で兎の世話をさせてもらうのがレニーの夢。しかし、そんなささやかな夢さえ理解しようとしない世間のルールによって、彼は、「こいつを生かしておくのは、かえってかわいそうってもんだぜ」という理由で殺されたキャンディの老犬のように射殺されてしまうのだが、残念ながらこの愚かなルールは現在でも“生産性”と名前を変えて生き残っているようである。

ということで、本作は「戯曲を小説形式によって書いた…一つの実験」らしいのだが、確かに全体的な構成は良く練られており、一つとして無駄なエピソードの存在しない完成度の高さには驚かされるばかり。しかし、そんな完璧さが少々物足りなさを感じさせてしまうのも事実であり、小説としてはもう少しほっこりできるダレ場みたいなものがあっても良かったのではないでしょうか。

Galaxy S10購入

今日は、近所のドコモショップスマホの機種変更をしてきた。

今まで使っていたGalaxy S4は、2013年7月に表銀座を歩いているときに“水没”させてしまったGalaxy Sの代わりに購入したものであり、うーん、もう6年間も使っていたんだなあ。確かに妻のスマホに比べると処理スピードが遅かったり、GPSの感度が鈍かったりするのだが、正直、使っていてそれほど不便とは思っていなかった。

しかし、バッテリーの消耗が激しいのは如何ともしがたく、新しいバッテリーに交換しようにも既に純正品は生産中止になってしまっている。サードパーティのものもいくつか試してみたが大きな改善効果は見られず、ちょっとした外出にもモバイルバッテリーが手放せなくなってしまった。

まあ、そんな訳で、日韓友好回復の一助にでもなればという思いも込めて機種変更に踏み切ったのだが、新しくなったGalaxy S10は俺のような老人には勿体ないくらいの高性能であり、反応が良すぎてかえって戸惑ってしまうような状況。特にポケGOの起動等が格段に早くなったのは有り難いが、勿論、そのためにスマホを買換えた訳ではないことは改めて言うまでもない。(?)

ということで、スマホを買うときにケースと保護フィルムも一緒に購入するか質問されたのだが、Amazonで買えば良いやと思ってお断りさせて頂いた。しかし、帰宅後確認してみるとGalaxy S10には保護フィルムが貼付済みであり、専用ケースも同梱されているということで、う~ん、あのドコモショップの質問は何だったんだろう? かんぽ生命の件といい、これも新自由主義の弊害の一つなんでしょうかねえ。

スイング・ホテル

1942年
監督 マーク・サンドリッチ 出演 ビング・クロスビーフレッド・アステア
(あらすじ)
歌手兼作曲家のジム・ハーディ(ビング・クロスビー)は、ダンスの名手であるテッド(フレッド・アステア)や紅一点のライラとのトリオで人気を博していたが、働きどおしの日々に嫌気がさし、ライラと結婚して田舎で農場を始める決意を固める。しかし、ショービジネスに未練のあるライラがテッドを選んだため、ジムは一人で農場を切り盛りすることになってしまい、困った彼は“HOLIDAY INN”のアイデアを思いつく…


作曲家アーヴィング・バーリンの原案に基づくという名曲揃いのミュージカル映画

“HOLIDAY INN”というのは本作の原題でもあり、要するに年に15日しかない休日にだけ営業する宿屋兼劇場のこと。ジムは、新たに採用した歌手兼ダンサーのリンダと一緒にそこで自作のステージを披露して好評を博すのだが、ライラに振られたテッドが新しいパートナーとしてリンダに目を付けたことから、新たな三角関係が始まってしまう。

さて、何と言っても本作の最大の魅力はアーヴィング・バーリンがそれぞれの休日をテーマに書き下ろした名曲の数々であり、クリスマスの日に歌われる“ホワイト・クリスマス”は今やクリスマス・ソングの定番。また、ジュディ・ガーランド主演の「イースター・パレード(1948年)」のテーマ曲の初出がこの作品だったというのは、今回初めて知った。

そんな名曲で甘い歌声を披露するビング・クロスビーに対し、フレッド・アステアも酔っ払いから爆竹までという多彩なダンスで対抗しており、それにミュージカル映画の職人マーク・サンドリッチによる小気味良い演出が加わるのだから、これでつまらない作品になる筈はない。うーん、どうしてもっと早く見てみる気にならなかったのかなあ。

また、リンダ役のマージョリー・レイノルズという女優さんはとても可愛らしいし、ダンスも達者ということでもっと大成しても良かったような気がするが、Wikipediaによると「彼女のキャリア・アップは彼女の指導者であるマーク・サンドリッチの早死により遅れること」になったとのこと。ちなみに、“ホワイト・クリスマス”におけるクロスビーとのデュエットは別人による吹替えだったらしい。

ということで、あくせく働くばかりが人生では無いことを教えてくれるテーマ的にも優れた作品なのだが、それが1942年という第二次世界大戦の真っ最中に公開されているというのはちょっと驚異的。本作のリメイクと言われる「ホワイト・クリスマス(1954年)」が妙に軍隊に好意的なのは、そのエクスキューズ的な意味合いがあったからかもしれません。

蓼科山

今日は、妻と二人で長野県にある日本百名山の一つである蓼科山を歩いてきた。

去年、家族旅行の目的地にと思って企画した山だったが、悪天候のために計画変更。今回はそのときのリベンジということになるのだが、当初、降水確率の高かった天気予報も日を追うごとに好天へと変り、そのぶん気温も高くなるらしい。そんな中、途中の七合目登山口駐車場にはまだ余裕があるのを横目で見ながら、午前7時半頃に大河原峠登山口に到着する。

やや意外にもこちらの駐車場は既に満車状態であり、少し引き返したところの路肩に車を止めて7時40分に歩き出す。大河原峠登山口の看板(7時46分)周辺は大勢の登山客でやや混雑していたが、歩き出すと間もなく自然にバラけていき、いつもどおり急がず休まずのペースでのんびり歩いて行く。

八ヶ岳連峰の山らしく登山道にはやや大きめの石がゴロゴロしているが、それなりの急坂を我慢して上っていくと次第に傾斜は収まっていき、8時47分に佐久市最高地点(2380m)に着く。その先からは“縞枯れ”のおかげで樹間から周囲の景色が眺められるようになり、ちょっぴり開放的な気分を楽しめる。

さて、七合目登山口からのルートとの合流地点である将軍平には蓼科山荘(9時6分)が建っており、子ども連れの目立つ賑やかな登山客に混じって本日最初の大休止。9時18分に再出発すると山頂までの最後の急登が待っており、妻の苦手とする段差の大きい岩場の急斜面を必死になってよじ登っていく。

しかし、そんな急登も30分程度で終了し、蓼科山頂ヒュッテ(9時51分)を過ぎて9時56分に白杭の立つ蓼科山の山頂(2530.7m)に到着。以前、北横岳から眺めたとおり、そこにはプリンのカラメル部分に相当するような岩原が一面に広がっており、その異様な光景に夫婦揃って思わず歓声を上げてしまう。

周囲を取り巻く雲海の上には一際目立つ八ヶ岳連峰の他、北アルプスから南アルプスまで多くの名峰が浮んでおり、周囲の登山客からも“来て良かったね”という声が聞こえてくること頻り。確かに駐車場から歩いて2時間余でこの絶景を目にすることが出来るのだから、人気が高いのは仕方ないところだろう。

さて、蓼科山頂ヒュッテのトイレ(=@200円)をお借りしてから10時54分に下山に取り掛かると、復路は往路を引き返すだけであり、蓼科山荘(11時27分)~佐久市最高地点(11時49分)と歩いて12時44分に大河原峠登山口に到着。ここまでの総歩行距離は6.9kmだったが、折角なのでそこの「CAFE ADAMO」で冷たい飲み物を頂いてから車に戻った。

ということで、いつもの「あさしな温泉 穂の香の湯」で汗を流してから無事帰宅。好天に恵まれた今回の山歩きは百点満点の出来だったが、おまけに佐久市の道の駅でお土産に購入した「ナガノパープル」というブドウがこれまたとても美味であり、今度行ったときにはもっと沢山購入したいと思います。
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記憶にございません!

今日は、妻と二人で三谷幸喜監督の最新作「記憶にございません!」を見てきた。

個人的にはタランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」が第一候補だったのだが、上映時間が161分と長く、タランティーノ・ファンでも無い妻に3時間弱の長丁場を付き合ってもらうのは少々気が引ける。そんな訳で夫婦揃って気楽に楽しめそうなこっちの作品に変更し、平塚ラーメン二代目&クリーンパーク茂原経由で映画館へ向かう。

さて、ストーリーは、傍若無人政権運営のために史上最悪のダメ総理と呼ばれていた黒田総理が、聴衆の投げた石が頭に当たったときのショックで記憶を失ってしまうという設定。混乱を避けるためその事実を隠して公務に復帰した彼は、記憶喪失のまま客観的に自らの政治家人生を見つめ直すことになり、その結果、自らの過ちに気付いて生まれ変わろうと決意する…

中井貴一演じる記憶喪失前の黒田総理は、人目も憚らずに暴言は吐くわ、賄賂は受け取るわ、不倫・セクハラはするわといった具合にとても分りやすい悪徳政治家として描かれており、まあ、実態はいずれにしろ、あれだけ表面を取り繕うともしない政治家は今の政界では存在し得ないだろう。

おそらくそれは本作の主人公が特定の政治家をモデルにしていると見られないようにするための配慮であり、観客に“あの黒田総理に比べれば、今の政治家はまだマトモだよね”という印象を与えたかったのかもしれない。一応、現政権のトランプ追従外交を批判するような姿勢が見られた点は評価できるが、恰好のネタである森友・加計問題に関してはアンタッチャブルの立場を崩しておらず、政治風刺としても相当物足りない。

そして本作の最大の問題は、そのハッピーエンド的な結末に国民が一切関与していないところであり、結局、政治を変えることが出来るのは政治家だけという彼らの無力感をそのまま上書きしてしまっている。まあ、脚本&監督を担当している三谷幸喜に“革命”を期待する方が間違っているのだろうが、厚顔無恥が売り物の現政権に対して“改心”を期待するのはそれ以上に非現実的なことだと思う。

ということで、いつもに比べて観客の年齢層がかなり高いのが気になったが、まあ、日頃マーベルやディズニーに現を抜かしているこちらの方が異常なのであり、妻に言わせると本作のような映画が“年相応”なんだとのこと。しかし、こんな生ぬるいお湯にばかりつかっていたら風邪を引いてしまうのは必至であり、う~ん、ここはやっぱりタランティーノにしておくべきだったのかもしれません。