闇冥

馳星周の選定による山岳ミステリ・アンソロジー

長かった「昭和史発掘」をようやく読了した後なので、何か軽い読み物を欲していたところ、同じ松本清張の短編を含むこのアンソロジーを発見。長引く梅雨空のせいで山歩きもなかなかままならない状況であり、そんなストレスの解消にも役立つことを期待して、早速読んでみることにした。

さて、4つの短編小説が収録されているのだが、その巻頭を飾るのは松本清張の「遭難」。職場の若手2人と鹿島槍ヶ岳を訪れた江田は、悪天候のために道迷いを犯してしまい、同行した岩瀬を遭難死させてしまう。しかし、弟の死を納得できない岩瀬の姉は、江田に対し、従兄の槇田を遭難現場まで案内して欲しいと依頼する、っていう内容。

ネタをばらしてしまうと、この遭難事故は江田によって巧妙に仕組まれた殺人事件であり、ベテラン登山家の槇田によってそのトリックが見破られてしまうのだが、そんな謎解き以上に面白いのが登山そのものの描写。登山口から始まって、沢沿い、樹林帯、稜線と様々に変化するルートを進んでいく様子がテンポよく再現されており、読んでいるだけで(疲労感を含め)本当に山歩きをしているような気分にさせてくれる。

あまりにリアルなので、清張も山歩きが趣味だったのかと思ってネットで調べてみたところ、本作は「山に登る人間には悪人が居ない」という言葉に反発を覚えて書いた作品であり、現地調査に訪れたときには「足弱の点は女なみ」の故、「山の中腹で落伍した」らしい。しかし、それだけの経験でこんな迫真の表現が出来てしまうのだから、一流の作家というのは凄いもんだなあ。

さて、このアンソロジーには「遭難」という名前の作品がもう一つ収められており、「登山そのものの描写」の素晴らしさでは清張作品に勝るとも劣らない。著者は加藤薫という耳慣れない作家だが、調べてみたところ、相当の登山キャリアの持主のようであり、学習院大登山部に所属していたときに遭遇した事故をベースにしてこの作品を書いたらしい。

ストーリーは、冬の北アルプスK峰(=実際の事故が起きた鹿島槍ヶ岳だろう。)を目指した6人の大学生の悲劇を描いており、遭難で4人のメンバーを失ってしまったリーダーの江田は、ようやく雪に埋もれかけたテントの中から新入部員の古浜道子を救出する。しかし、彼女の口から出た最初の言葉は「あなたよ、殺したのは…」というものであり、江田はその言葉を背負ったままその後の人生を送ることになる。

まあ、他の作品に比べると江田の“殺意”はほぼ希薄であり、15年ぶりに再会した古浜はそんな言葉を口にしたことさえすっかり忘れてしまっている。ひょっとすると、リーダーとしての自責の念が生み出した幻想という可能性もあるのだが、選者の馳に言わせると「荒れ狂う大自然の中、卑小な人間が心の奥に抱える深い闇を描いた作品がコンセプトだ」そうであり、まあ、そういう意味でならこの作品も立派な“山岳ミステリ”なんだろう。

ということで、残る新田次郎の「錆びたピッケル」と森村誠一の「垂直の陥穽」も面白かったが、やはり山岳小説としては前述の2編が勝っていると思う。奇しくも、その事件現場になったのは共に鹿島槍ヶ岳であり、う~ん、登山口まで車で片道4時間くらいかかるのが面倒だけど、いつか歩いてみようかなあ。

昭和史発掘13

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の最終巻。

この巻に収められているのは、特設軍法会議が決行将校らに下した判決の内容とそれに基づいて行われた処刑の様子等を描いた「判決」と、「首謀中の中心人物」である磯部浅一の遺した「獄中日記」の内容や北、西田、真崎らに対する判決内容を詳しく解説した「終章」の2編。

最初に「青年将校らによる叛乱事件勃発で公判は無期延期となり、半月以上開廷されなかった」という相沢事件の結末が紹介されているのだが、事件の影響で相沢の「擁護者または同情者が一挙に去って」しまったらしく、5月の死刑判決の後、わずか55日目で上告棄却となり、7月3日にあっさり銃殺されてしまう。

「相沢の死刑執行は、一部で予想された恩赦減刑もなかったので、これによって被告叛乱将校らの運命が一般に予知された」そうであり、その2日後の7月5日に出された判決は「叛乱罪の青年将校15名、民間人2人…都合17名に死刑を言渡」すという極めて厳しい内容。「これほど多数の死刑者が出るとは彼らも予想していなかった」。

これは次の「終章」に書かれているのだが、「五・一五事件の『軽い』量刑」を知っている「彼らは重臣大官を殺害しても、死刑になるとは思っていなかった」らしく、あの「安藤輝三さえ、不起訴になって天長節に出所出来ると楽観し、出所の祝賀会まで夢みて朗らかにしていた」とのこと。著者ではないが、「かれらの甘さは想像以上」と言わざるを得ない。

同じ7月5日には下士官兵に対する判決もあり、「起訴された下士官73名、兵19名」のうち下士官では実刑17名、執行猶予は25名、兵では3名が有罪で全員執行猶予になる。「判決文には明確に書いていないが、兵を無罪にしたことは、軍隊の破壊を防ぐという政治的配慮とは別に、法理論からいっても『緊急避難』(=事件に際して兵に他の行為を期待することができなかった。)の場合が適用されよう」というのが、著者のコメントである。

その後、「叛乱将校班…の香田清貞以下13名と民間側被告渋川善助、水上源一の計15名の死刑執行は11年7月12日」に行われ、結局、「東京軍法会議は、叛乱に参加した実行行為の将校に対しては予審を含めてわずか三ヵ月の間に審理、判決、処刑という性急」なスケジュールで強行されたことになる。

それは「中国の国民政府に『満州国の独立を事実上承認させる』…ための戦争準備」を急ぐ陸軍省の意志を反映したものであり、既に第一師団は予定より2ヵ月遅れの5月8日に満州に渡っている。ちなみに、起訴不起訴を問わず、事件後間もなく免官された決行部隊の下士官たち(=近歩三第七中隊付きの者を除く。)は、その後一兵士として召集され、「多くは満州での交戦とそれにつづく日中戦争、太平洋戦争で戦死している」そうである。

さて、次の「終章」では、北、西田の証人として処刑を延期された村中、磯部の両名のうち、「獄中日記」の「いたるところに天皇に対する『直諫』」を綴ったという磯部の思想について再び取り上げているのだが、最期まで「理に於ては充分に余が勝つた」と信じていた彼の弱点は「天皇個人と天皇体制とを混同して考えている」ところ。

要するに、貧農の出身であるという彼は、「天皇を体制から切りはなして、古代天皇的な神権をもつ個人の幻影を見てい」ただけであり、「体制の破壊は天皇の転落、滅亡を意味することを磯部らは知らない」という著者の批判は、現在の天皇制を考える上でも十分参考になると思う。

そんな磯部は、「同志を『裏切った』真崎甚三郎大将に対して…反感と憎悪を抱いてい」た一方、「北一輝西田税を事件のまき添えにしたこと」をとても悔やんでいたらしいのだが、「昭和12年8月14日、北一輝(本名輝次郎)、西田税、亀川哲也の3人に対する判決が下」り、「北と西田は死刑、亀川は無期禁固となった」。

「北は、自分の犯罪が幇助(従犯)以上に出ないと思っていた」そうであり、裁判長を務めた吉田悳少将も、当時、「今事変の最大の責任者は軍自体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、国民として断じて許し難きところ」と考えていたらしいのだが、結局、陸軍省の意志を覆すことは出来ず、「磯部、村中、北、西田は12年8月19日正午前までに死刑を執行され」てしまう。

これに対し、同年9月25日に出された真崎甚三郎被告に対する判決では、「ことごとく真崎被告の行動を犯罪事実と認定し」ているにもかかわらず、「然るにこれが叛乱軍を利せむとするの意志より出でたる行為なりと認定すべき証憑十分ならず」という理由で一転無罪になってしまう。

これに関して著者は、「なんといっても真崎が決定的な言質(青年将校らとの共同謀議、指示や指令など)を彼らに与えていないのが決め手を欠くことになった」と述べているが、それに加えて皇道派の実力を継承した平沼騏一郎一派が近衛内閣に圧力をかけた結果だろうと推理している。

さて、「この真崎判決文こそは、法的な上でも実際の上でも、『二・二六事件終結』を意味する」のだが、ここまで「この叙述に当たっては、わたしは自分の意見はあまり挿入していない」ように心掛けてきたという著者は、最後のところで「叛乱青年将校らの蹶起がなぜ失敗したか」という問題に関する私見を述べている。

その戦略面における敗因は「決行部隊に最高指揮官が存在しなかった弱さ」であり、やはり「中橋がとった宮城占拠の不徹底さ」を盛んに悔いている。また、「国民の支持をまったく得られなかった」ことも決定的な要因の一つであり、著者はその理由を「決行将校の社会情勢に対する認識不足と、独善的な思い上がり」に求めている。

しかし、個人的に一番興味を惹かれたのはやはり天皇制との関係であり、青年将校らが「政治体制の改革を具体的に要求すること」が出来なかったのは、それが「天皇の統治親裁の大権を侵犯する」恐れがあると考えたからだという指摘は、致命的ともいえる彼らの限界を如実に物語っている。

そんな彼らは「ただ天皇個人の『聖断』にのみ頼り、その『聖断』を動かすことの出来るシンパサイザーの将軍にのみ頼」るしかなかった訳だが、「天皇個人の古代神権の絶対性が発揮される」のはそれが「国家体制に利益する場合のみ」であり、「もしそれに反した場合は天皇制のもとにそれは封じ込められ」てしまう。

著者自身も「かれらの最大の挫折の原因は天皇の激怒にある」と書いているにもかかわらず、天皇は、その怒りの鉾先が向けられた一人である「『真崎無罪』判決文に対し一言の不満も洩らせずに謄写を手もとに保存する」しかなかった訳であり、う~ん、仮に中橋中尉による宮城占拠が成功していた場合、事件はどんな方向に進んで行ったのであろうか。

ということで、長かった「昭和史発掘」も遂に本巻で終了。最後の「二・二六事件」の印象が強すぎるものの、それがごく限られた少人数のメンバーによって計画されたこと、戦争回避の観点からすると蹶起側にも鎮圧側にも「正義」は存在しないこと、天皇制は常に強い者の味方であること等々を理解できたのは有意義なことであり、天皇制に関してはもう少し勉強を続けてみようと思います。

昭和史発掘12

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の続き。

この巻に収められているのは、二・二六事件に関与した将校、下士官兵、民間人を裁くため、緊急勅令で東京臨時陸軍軍法会議が設置されるまでの経緯、背景等を描いた「特設軍法会議」と、そこで審理に携わる人々の頭を悩ませることになった様々な問題点を詳しく解説する「秘密審理」の2編。

軍事クーデターという前代未聞の不祥事をしでかしたということで、「本来ならば軍部が謹慎し、政党がこれを追求しなければならないのに、事実は逆」であり、「陸軍は二・二六事件を脅迫の道具として政治に介入し、実質的には内閣を軍事内閣化しようとした」。新首相には外相の広田弘毅が指名されるが、軍部がそれに賛成したのは彼を「ロボットにするつもり」だったからに過ぎず、彼に対する著者の評価も極めて低い。

一方、寺内寿一新陸相は「3月20日附で事件の責任者の処分を含める大異動を行」い、皇道派や清軍派を一掃してしまったため「寺内には邪魔する者が一人もいなくなっ」てしまう。そんな彼の「背後にいて陸軍の政治介入の姿勢を推しすすめ」たのが梅津美治郎武藤章石原莞爾、鈴木貞一の4人であり、「陸軍のこの新しい主流派を世に『新統制派』と呼んだ。その性格から政治をも軍が統制しようというもので、政治の奪取」であった。

また、このときに「陸海軍大臣の現役制」が復活され、その直接の狙いは予備役に退いた「真崎、荒木ら皇道派の再起防止」にあった訳だが、これがその後、「軍閥専横の最大の武器」として悪用されることになってしまったというのは記憶に止めておいた方が良いだろう。

さて、「何も知らない兵士を連れ出し、4日間も帝都の中枢部を占領し、軍隊間の相撃直前まで至った」上に、自決もせずに「大部分はオメオメと刑務所に収容」されたということで、叛乱将校や軍部に対する世間の非難は厳しく、相沢裁判のときのような法廷闘争になることを恐れた陸軍当局は「非公開、非弁護、非上告」の特設軍法会議の設置を選択する。

本来、「特設軍法会議とは戦時事変又は交通遮断した戒厳地区」に設置されるものであり、これを「戒厳令下といっても3月に入ってからは…治安も回復し、平静になっている」国内に適用するのは無理筋だが、「中国侵略の準備を着々とすすめていた」陸軍当局はなるべく早く裁判を終らせたかったために(最早不要になった?)戒厳令を続行することによってそれを強行。「それでは、はじめから公正な審理があったとは思えなくなる」というのが著者の感想である。

こうして開かれることになった軍法会議には、北や西田らの民間人の他、「自分と此の度の事件とは全然関係はない。青年将校等が勝手に思い違いをして蹶起したのだ」と主張していた真崎大将も「叛乱の教唆と幇助」の罪で身柄を送致されてくるが、そこでの審理内容を詳しく取り扱っているのが次の「秘密審理」。

残念ながら、敗戦時に焼却されてしまったため、現存しているのは「ガリ版刷りの判決書」(=副本)だけで、「予審調書も法廷の審理記録も一切地上から姿を消して」しまっているのだが、「『昭和維新発顕』のため『君側の奸を除く』主旨」に自信と誇りを抱いている青年「将校は、すべて自己の行動を認め、責任のがれをした者はいなかった」ため、「事件審理は極めて円滑にすすんだ」らしい。

最大の問題点は、決行将校の命令によって参加した約1,400名の下士官兵の取扱いであるが、「命令・服従の絶対的秩序で構成されている軍隊の崩壊」を回避するため、「今次事件ニ於イテモ上官ノ命令ナリト信ジ、唯之ニ服従シタル者ノ行動ハ何等刑事上ノ責任ナキモノト認ム」というのが、判決に大きな影響力を持っていた陸軍省の基本的スタンス。(ただし、「軍隊における犯罪行為の命令服従を無罪とするのはドイツと日本だけで、英、仏、米は『有罪』としている」らしい。)

次の問題は、叛乱の始まりを「営門を出た時から」とする軍法会議の判断についてであり、一時的にせよ「決行部隊を『左翼団体』に備える警備部隊」に編入させたことをはじめ、「事件経過中の公式命令が矛盾撞着だらけ」だったために、磯部からの「国賊皇軍の中に勝手に入れたのは誰ですか」という嘲りを含んだ問いに対し、満足に答えることが出来ない。

もっとも、これに関しては「軍法会議は訴訟物体の範囲を超えて審判することができない」という「不告不理」の原則が存在していたらしく、「この事件において、陸軍省に都合の悪いことが公訴の実体から除かれていれば、不告不理の原則によって軍法会議の審判は除外された部分を追求できな」かったそうである。

また、「犯行ノ原因」の一つに挙げられている「『日本改造法案大綱ノ感化』というのは最も重要で、これが東京陸軍軍法会議の最大の狙いの一つ」。要するに、陸軍当局は「あくまでも軍の内部の者が叛乱を自主的に行ったのではなく、すべて外部民間人による謀略的指導であるとして、軍の『純潔』を保とうとしている」のであり、いよいよ次巻ではそんな彼らに対する「判決」の内容が明らかになる予定である。

ということで、「特設軍法会議」の最後の部分では二・二六事件と直接関係のない「島津ハル事件」が取り上げられているのだが、それは著者の絶筆である「神々の乱心」のヒントにもなったという怪事件。前世に因縁のある現天皇は「早晩御崩御は免れず」、その後継者たるべきは「南朝の正統故有栖川宮殿下の霊統を嗣ぐ高松宮殿下なり」というのが彼女が不敬罪に問われた内容らしいのだが、著者はそこから「天皇家の血で血を洗う争闘」の可能性を嗅ぎ取っていたみたいです。

天気の子

今日は、妻&娘と一緒に新海誠監督の新作アニメである「天気の子」を見てきた。

最大の鑑賞動機は“他に面白そうな映画が無かったから”という少々消極的なものであるが、まあ、あれだけ大ヒットした「君の名は。(2016年)」の後で何をやらかしてくれるのかという興味が無かった訳でもない。TVのCMを見た限りでは前作よりSF色は減退しているようだが、そのスキ間を何で埋めているのだろうと考えながら映画館へ。

さて、ストーリーは、家出をして東京に出て来た高校生の主人公が、そこで出会った“100%の晴れ女”の少女と恋に落ちるという恋物語。実は、その少女には“降り続く雨を青空に変えるための人柱”という苛酷な使命が課せられていたのだが、主人公が彼女を救い出してしまったため、降り止まない雨のせいで東京の1/3が水没してしまう…

正直、SF色が薄まった点に関しては何の手立ても講じられていないため、割とストレートなラブ・ストーリーになってしまっているのだが、降り続く雨によって水没していく東京の姿を、経済力の低下によって貧困の拡大していく我が国の現状に置き換えて見てみれば、まあ、還暦過ぎの老人にとっても興味惹かれるところが無きにしも非ず。

序盤の方で、生活苦から少々いかがわしそうな職業に就こうとするヒロインを、主人公が必死になって止めようとするエピソードが出てくるのだが、おそらくこれがこの作品全体のテーマであり、それは“好きでもないことのために自分を犠牲にするのはお止めなさい”ということ。

勿論、この世の中には“責任”というものがあり、イヤなことでもやらなければならないときがある訳だが、それを過大視するのは禁物であり、例えば時給1,000円にも満たないアルバイトにお客のクレーム処理を任せるなんてことはあってはならない。本作のヒロインの立場もこれと同じであり、我が身を犠牲にして東京を水没から救うなんていう責任からは、さっさと逃げ出してしまうのが大正解。

しかし、そうは言ってもそれで問題が解決される訳ではないのも事実であり、水没の危機から東京を救うために政治や行政はありとあらゆる対策を講じなければならない。その意味からすると本作のラストは極めて悲観的であり、おそらく今の若者たちは政治や行政に対して何の期待も抱いていない(≒前作を見たときにも感じた両親の不在。少し昔の作品なら、街が水没したところから物語を始めると思う。)のかもしれないなあ。

ということで、本作を見た翌日に行われた参院選投票率は極めて低調であり、なかでも18歳と19歳の投票率は1/3にも満たなかったらしい。まあ、現政権のやっていることを見れば彼らの無力感を非難する気にもなれないが、当面、いつの日か新海監督が本作の続きを作りたくなるような時代が来ることを願って、努力し続けるしかないのでしょう。

万引き家族

2018年
監督 是枝裕和 出演 リリー・フランキー安藤サクラ
(あらすじ)
日雇い労働者の治(リリー・フランキー)は、近所のスーパーで息子の祥太と示し合わせて万引きを働いた後の帰り道、団地の片隅で寒そうに震えている幼女ゆりを見掛け、彼女を自宅に連れて帰る。その後、妻の信代(安藤サクラ)に咎められて一度は元の家に帰そうとするが、どうやら彼女が児童虐待の被害者らしいことが分ってしまい、そのままズルズルと同居を続けることに…


第71回カンヌ国際映画祭で見事パルム・ドールに輝いた是枝裕和監督作品。

この家庭は、信代と治の夫婦に一人息子の祥太、そこに信代の母初枝と妹の亜紀が同居するという5人家族なのだが、ストーリーが進むに従って彼らが血の繋がらない他人同志であることが判明していくっていうのが本作のミソ。また、最初は不自然に思えたいくつかの“謎”が、それに伴って次々に明らかにされてくところなんかは、ちょっぴりミステリイ風でもある。

例えば、信代と治の関係は、DVに苦しめられていた妻(=信代)と、彼女を救うためにその夫を殺害した犯人(=治)であり、幸い殺害に関しては正当防衛が認められたものの、夫の遺体を床下に埋めて隠したために治は死体遺棄の罪で実刑に処されたらしい。そして、このことから信代がゆりの体の傷を見て急に優しくなったことや、治が定職に就けずにいることの理由が明らかになってくる。

まあ、こんな具合にこの家庭には今の我が国における問題点(=DV、就職差別、児童虐待、老人の孤立、家出、貧困etc.)が満載なのだが、やはり本作における最大のテーマは“家族”であり、法律で決められた正式な家族では救われない人々をどうやって救ったら良いのかという問題だろう。

本作の登場人物たちは、そのために“偽装家族”という方法を選んだ訳であり、それによって一時の幸福を得ることに成功するのだが、子どもの成長によってその限界が明らかになり、最後には再びバラバラになってしまう。それ以外にもこの方法には弱点が多そうだが、う~ん、他にどんな方法があったのだろう。

ということで、本作は問題提起の作品であり、解決のヒントはいくつか与えられているものの、回答は示されていない。まあ、それを考えるのは映画関係者ではなく、政治や行政が率先して取り組むべき課題なのだが、残念ながら、伝統的家族観とか自己責任に異常なこだわりを見せている現政権にはあまり期待できそうもありません。

昭和史発掘11

松本清張のノンフィクション作品「昭和史発掘」の続き。

この巻に収められているのは、戦勝気分に酔う決行部隊とその「討伐」を決定した参謀本部の動きを対照的に記述した「占拠と戒厳令」、形勢逆転を知らされて動揺する青年将校の姿とそれに一喜一憂する老将たちの醜悪さを描いた「奉勅命令」、そして圧倒的な包囲軍の兵力の前になすすべもなく降参するしかなかった決行部隊の末路を記録する「崩壊」の3編。

さて、事件2日目である27日の午前3時には戒厳令が布告されているのだが、「この戒厳令を…自分の望んでいた『天皇の大号令』的なものに解釈」していた青年将校たちは「27日朝から夕方まで…すっかり『戦勝気分』」であり、「26日夕方からは『尊皇義軍』と自称を統一していた」らしい。

あの「桜会」の首謀者である橋本欣五郎大佐の「天皇に大権を仰いで維新を断行する。蹶起部隊は原隊に撤退する」という和解案を一蹴した彼らは、北一輝の「国家人なし、勇将真崎あり」との霊旨を受けて事態の収拾を真崎将軍に依頼するのだが、いち早く「宮中の形勢不利」に気付いていた彼はこれを拒否してしまう。「この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた」訳であり、「この時点で真崎を未だ信頼していた決行将校は気の毒である」というのが著者の感想。

これに対し、石原莞爾大佐の率いる参謀本部は、「徹底的に始末せよ」との天皇の強硬意志を受けていち早く「決行部隊に対する武装解除または武力討伐」を内容とする方針を決定。27日午前8時52分には香椎戒厳司令官に対して討伐の奉勅命令が出されるが、「東京の近接師団を動員して討伐準備が完成するには翌日午前5時までかかる」ため、「あれは『内示』だといい、本モノは28日午前5時に出るはずだ」ということになる。

さて、28日になってようやく奉勅命令下達の情報を入手した決行部隊には動揺が走るが、決行部隊の形式上の上官である歩一聯隊長の小藤大佐は、石原の「奉勅命令は下った、降参か殲滅か、この旨を帰って伝えよ」という「言葉をそのまま伝えると決行幹部を昂奮させ、どんな騒動にもなりかねないので、ここは知らぬ顔をしてすませ」ようと考えたため、詳細は不明のまんま。しかし、首謀者の一人である磯部は「一夜の内に逆転して維新軍に不利になってゐる事」に気付く。

続く「奉勅命令」では、まず、28日午前10時頃に行われた「香椎、荒木、林の会見」の様子が記されており、討伐回避を懇願する荒木大将らをさっさと追い出してしまった石原大佐は、それまで決行部隊を支持していた香椎戒厳司令官から「決心変更、討伐を断行せん」との言葉を引き出すことに成功する。

しかし、討伐の主力である堀丈夫第一師団長は決行将校に対して最後まで同情的であり、「現態勢においては攻撃不可能なり」と主張。結局、次章に記されているとおり「戦闘地域内の住民を速かに避難せしむるの困難なるを理由として、…攻撃実行を、29日払暁に延期するの已むなき」ことになってしまう。

一方、追い詰められた青年将校は、一時、栗原中尉の提案に従って自決を決意し、その報告を受けた香椎戒厳司令官は武力鎮定を回避できると「雀躍」するのだが、「磯部の翻意、安藤の反対で中止となり、一転して包囲軍と決戦することに一変」。ちなみに、自決の話を聞いた天皇は「自殺するなら勝手にやれ」と言い捨てたらしい。

「28日夕刻は、決行側に急激な崩壊がはじまったとき」であり、「このように包囲され、明朝5時の攻撃態勢が見えてくると、決行部隊も悲壮な空気が満ち」てくる。北一輝が「憲兵によって自宅から拘引された」のもこの頃であるが、彼が決行将校らの庇護を願ったのは統制派に憎まれている我が身の保身からだと推理する著者の評価は冷淡であり、「54歳の北はすでに直接的な国内革命運動の情熱を失っていた」。

さて、そんな決行部隊の最後の姿を描いているのが次の「崩壊」であり、「軍中央部は『皇軍相撃』までは決断しないだろう、出来るわけがない」との確信が崩れた決行幹部は、約2万4千人の包囲軍の前になすすべもなく立ちすくむ。「入隊後わずか50日足らず、軍隊のことは、まだ西も東も分らない」初年兵たちも、「ただ、絶対服従だけはきびしく教えられていた」ために自らの判断で投降することは出来ない。

それに気付いた戒厳司令部が29日早朝から開始した作戦は、決行将校を黙殺し、直接「決行部隊の下士官兵に向けビラの撒布とラジオ放送をする」こと。「戒厳司令官の名を以て奉勅命令の下令せられたることを明示し、下士官兵に帰営を促し」たところこれが奏功し、「包囲軍の重圧を前にして動揺していた兵」たちは完全に「崩壊」してしまう。

これに最後まで抵抗したのは「決行には最後まで反対したが、ひとたび参加するや、だれよりも闘志をもった」という安藤大尉率いる第六中隊だが、結局、安藤の自決(=未遂)をきっかけにして帰営勧告に応じることになる。こうして「決行部隊の下士官兵の原隊収容は、29日午後2時ごろほぼ終了した」。

一方、残された青年将校たちには「午後3時40分、戒厳司令部から憲兵司令官に対し逮捕命令」が出されるが、「軍首脳部でも『全員自決』を必然的なものと予定し…30余の『棺桶』も準備された」らしい。しかし、「この見えすいた自決強要に将校たちは反撥し、自決をとりやめ、公判闘争にきりかえた」ため、実際に自決したのは井出宣時大佐の説得に応じた野中四郎大尉(=「たまたま野中が上級の先任者であり、年長者でもあるところから蹶起趣意書に代表格で名を書いた」とされる人物)だけだった。

「こうしていよいよ事件は第一師団軍法会議予審官…に送致されることになり」、決行幹部らは「すでに準備されてあった軍用トラックに身柄を載せられて代々木陸軍刑務所に送り出されること」になる。「ただし、官邸の中に押しこめられていたとき、彼らの間に二、三の打合せがあって、その一つに『宮城占拠にはふれない』ことを申合せた」らしい。

ということで、軍事クーデターは本巻までで無事鎮圧されるのだが、その原動力になったのは「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ、此ガ鎮定ニ当ラン」という天皇の激しい怒り。それは青年将校らの唱える「昭和維新」が天皇制崩壊に繋がりかねないことへの恐怖に由来するのかもしれないが、この怒りが1年後の盧溝橋事件のときにも発揮されていたら、日中戦争を未然に防ぐことが出来ていたのかもしれません。

ファースト・マン

2018年
監督 デイミアン・チャゼル 出演 ライアン・ゴズリングクレア・フォイ
(あらすじ)
幼い娘を病で亡くしてしまったニール・アームストロングライアン・ゴズリング)は、NASAが進めるジェミニ計画の宇宙飛行士に応募し、見事に採用される。ソ連との宇宙開発競争に後れをとっていたNASAは次々に新しい課題に取り組んでいくが、その積極性に比例して人身事故も多発。そんな中、いつも冷静な態度を失わないニールはアポロ11号の船長を任されることになる…


アポロ11号で月着陸に成功した宇宙飛行士ニール・アームストロングの半生を映画化した作品。

若くして大ヒット作連発中のデイミアン・チャゼルの新作ということで、出来れば映画館で見たかったのだが、惜しくも同時期公開の「アクアマン(2018年)」にハナ差(?)で敗れてしまい、この度、DVDで鑑賞。しかし、結論を先に言ってしまうとこの判断は大きな誤りであり、断然こっちの作品を映画館で見るべきだった!

さて、本作は“月着陸成功”という人類史上の偉業を、何とニール・アームストロング個人の側から眺め返すという画期的な(?)内容であり、カメラは基本的に彼のそばを離れない。したがって着陸成功を祝う歓声は他人事みたいだし、地球に帰還した彼を迎えるのも決して彼の行動を100%承認しているとはいえない妻のジャネット(クレア・フォイ)ただ一人。

まあ、確かに“月着陸成功”というのは、人類にとっては歴史に残る輝かしい偉業であり、米国にとっては宿敵ソ連との宇宙開発競争における画期的勝利を意味するのだろう。しかし、アームストロング個人が“何故、危険を冒してまで月に行くのか”と問われた場合、その回答は意外に困難であり、結局は“わがまま”というところに帰着してしまうのかもしれない。

本作の冒頭にも、病に冒された娘を救うために奔走する主人公の姿がチラッと出てくるが、それを逆に言えば“娘が死んでくれたおかげで自分の夢を叶えられる”ということ。おそらく彼にとって“家族への罪悪感”というのは決して解くことの出来ない呪縛のようなものであり、出発前夜、自分の息子たちに向って何も言えなかったのもそのせいだったに違いない。

ということで、アナログ感満載の映像は今見るととても新鮮であり、確かに液晶もLEDも無かった頃はこうだったんだよなあ。一方、狭苦しい宇宙船のシートに縛り付けられて真っ暗な宇宙空間に放り出される感覚は、おそらく映画館での鑑賞を前提に描かれたものであり、繰り返しになるが、やっぱり映画館で見るべき作品でした。